大判例

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東京地方裁判所 昭和49年(ヨ)767号 決定 1974年5月14日

申請人

日本共産党

右代表者中央委員会議長

野坂参三

右代理人弁護士

上田誠吉

外四九名

被申請人

株式会社産業経済新聞社

右代表者代表取締役

鹿内信隆

右代理人弁護士

稲川龍雄

外九名

主文

本件仮処分申請はこれを却下する。

申請費用は申請人の負担とする。

理由

第一当事者双方の主張

申請人の申請の趣旨は、「(一)被申請人は、本決定送達後三日以内に被申請人発行のサンケイ新聞東京本社、大阪本社の朝刊各版通して、全七段ぬきで、別紙第一どおりの文章を一回掲載せよ。(二)仮に、被申請人が、右期限内に前項の文章を掲載しないときは、被申請人は申請人に対し、右期限満了の翌日より、前項の文章を掲載するまでの間、遅延一日につき金三〇万円の損害金を支払え。」というのであり、その申請の理由の要旨は、別紙第二ないし第五の「仮処分申請書」記載の申請の理由、「仮処分申請理由補充書」および「準備書面(一)、(二)」記載のとおりである。

被申請人の申請の趣旨および申請の理由に対する答弁の要旨は、別紙第六ないし第八の「答弁書」および「準備書面(一)、(二)」記載のとおりである。

第二当裁判所の判断

一本件広告の掲載と頒布

疎明資料によれば、被申請人は、昭和四八年一二月二日付のサンケイ新聞朝刊紙上に、広告提供者を申請外自由民主党とする別紙第九のとおりの広告(以下「本件広告」という。)を全七段の大きさで掲載しこれを約二〇〇万人の購読者に頒布したことが認められる。

二本件広告による名誉毀損

そこでまず、本件広告が申請人の名誉を毀損するおそれのあるものであるかどうかについて検討する。

疎明資料によれば、本件広告にいう「日本共産党綱領」とは、申請人が昭和三六年七月開催の第八回党大会において採択した(昭和四八年一一月二〇日一部改正)同名の文書(以下「党綱領」という。)を指称するものであり、それは、申請人の党創立の方針、日本現状の基本的特徴の分析、当面する日本革命の性格と任務、革命の推進力とその結集、行動綱領の基本、独立・民主の日本建設から社会主義と共産主義社会への発展の展望などを確認・提示するものであつて、申請人にとつては、そのなりたちと目標をしめす基本的な文書であること、本件広告にいう「民主連合政府綱領」とは、申請人が、昭和四八年一一月二一日開催の第一二回大会において採択した「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」(以下「連合政府綱領」という。)を指称するものであり、それは、革新三目標、すなわち、日本の中立化、国民本位の政治、民主主義の確立、にもとづき、革新統一戦線に参加する政党、政治勢力が共同で作成する政府綱領の基礎となりうる申請人の提案であつて、現在の段階における当面の国民生活防衛と民主的改革への提言であることが認められる。

ところで、疎明資料によれば、申請人は、日本の労働者階級と人民を搾取と抑圧から解放するために、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配とたたかい、人民の民主主義革命とひきつづく社会主義革命をへて、日本に社会主義社会を建設し、それをつうじて高度の共産主義社会を実現することを目的として結成された政党であり、創立五〇周年、党員三〇数万人(国会議員五〇名、地方議員二、七二二名)を擁する巨大な法人格のない政治団体として、その活動は高く評価され、次第に党勢を拡大しつつあること、申請人と本件広告提供者で、現に政権を担当している自由民主党とは国会、地方議会、その他政治活動の諸領域において、その主義、主張、政策などの面で鋭く対立し、日々激烈な政治的論争・批判が交わされ、ことに自由民主党、その支持者から申請人の目標とする社会主義体制ないし共産主義体制はいわゆる「自由社会」を守らず国民の権利・自由を抑圧するのではないかとの不安、批判、非難がしばしば表明されていることが認められる。

しかして、本件広告をみるに、本件広告には、申請人の採択した「党綱領」と「連合政府綱領」とは、「国会」「自衛隊」「安保」「国有化」「天皇」という五項目の重要な政策について「矛盾」していると考える、他の政党や新聞の社説のなかに疑問と不安を表明しているところもある、「連合政府綱領」はプロレタリア独裁(執権)への「単なる踏み台」、革命への「足がかり」にすぎないのでないか、国民の多くがその点をはつきりしてほしいと望んでいる旨の記載があり、加えて、本件広告提供者である自由民主党の形容が「自由社会を守る」とされ、そのスローガンが「自由社会を守るキャンペーン」とされていることに顔の右半分が歪んだイラストが大きくレーアウトされていることをあわせ考えると、本件広告は、暗に申請人は、「連合政府綱領」では革新三目標の実現をめざす民主的政府を樹立するがごとき言動を示しているが、連合政府樹立の暁には、申請人の本来の目標ともいうべき「党綱領」に則り一挙にプロレタリア独裁、革命への途を歩み社会主義社会ないし共産主義社会を建設してもはやいわゆる「自由社会」を守らず、国民の権利・自由を抑圧する社会を実現するのではないか、との「不安」を購読者に示し、購読者が申請人の甘言に偽まんされないようにと訴えているものともいいうる。

したがつて、本件広告は、購読者に対して申請人の採択した「党綱領」と「連合政府綱領」との間に「矛盾」があり、申請人の言動については「疑問」「不安」があることを強く訴えることにより、申請人の政党としての社会的評価、すなわち名誉を低下(いわゆるイメージダウン)させるおそれのあるものと認められる。

三政党に対する批判と名誉毀損

ところで、申請人のようないわゆる法人格のない団体は、法人格を有しない点において法人とは異なるが、これを構成する個々の構成員とは独立の存在を有し、社会生活上独立の活動をなし社会的評価を有するものであるから、その社会的評価、すなわち名誉も一個の貴重な人格権として法律上保護を受くべきものであることはいうまでもないが、他方被申請人のような報道機関の報道は、国民主権を基調とする民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断資料を提供し、国民のいわゆる「知る権利」に奉仕するものであるから、思想表現の自由とならんで、広く社会の出来事を事実として報道し、公正な論評をし、または報道機関としての意見を表明することのみならず、他人の各種の意見を広告として掲載する自由も、憲法二一条の精神に照らし、十分尊重されなければならないというべきである。

ことに、国民主権の原理に立脚する日本国憲法下にあつては、国民は、絶えず国や地方の政治に直接参画する国会議員や地方議員あるいはその者や支持者の所属する政党の政策・活動および政党相互間に交される政策論争・批判を知ることによつて、自からの国政に関する意見を形成し、意見の過誤を是正し、政党の政策・活動を批判・支持し、それにしたがつた意見を表明し、行動することによつて、国や地方の政治に参加する権利と責務を有するものというべきであるから、前示のごとき公共的使命を持つ報道機関としての新聞が、政党の政策・活動および政党相互間に交される政策論争・批判を報道記事・論評・意見広告として掲載する自由も憲法上最大限に保障されなければならないことは多言を要しないところである。

ところで、このような政党相互間に交される政策論争・批判は、対立政党の政策・活動の欠点を暴露し、自己の見解に共鳴させるよう説得するものである性質上、不可避的に辛辣・痛烈に過ぎ、時に誇大・侮辱・誹謗中傷的に走り、さらに虚偽の内容を述べ、多かれ少なかれ、穏当を欠く内容と表現に陥り易いものともいうべきものであるから、この論争・批判を報道・論評・広告という形式で新聞に掲載することは、対立政党の名誉を毀損するおそれが生じ、ここに名誉毀損と表現・報道の自由という二つの法益の衝突が起こりうる。

しかしながら政党は、政治上の主義もしくは施策を推進し、支持し、もしくはこれに反対し、または公職の候補者を推薦し、支持し、もしくはこれに反対することを本来の目的とする高度に公共的な団体であつて、国民の厳粛な信託による国民の代表者として国や地方の政治に参画する議員をもつてその主要な構成員とするものであるから、対立政党や国民からの政策論争・批判に対しても、これが国民一般に政党の政策・活動に対する認識を深め、国民の「知る権利」や意見表明の自由に奉仕するものとして最大限これを甘受すべく、仮にその論争・批判が対立政党の名誉を毀損するような内容であつたとしても、政党という高度な公共性に鑑み、その論争・批判を好ましからざるものとして排斥することなく、謙虚に耳を傾け、国会、地方議会という公の場あるいは選挙や日常の政治活動の場における公の論議を通して、対立政党や国民に対し自己の確たる政治的見解を開陳し、その論争・批判に対して再批判・反駁を試み、その過誤を是正せしめ、もつてよりよき政策の樹立とその実現に努力することが公党に課せられた政治的責務であるといわざるを得ない。

よつて、このような政党の政策や政治的姿勢に対する論争批判等は、たとえ当該政党の名誉を毀損する場合であつても、(一)これが故意にもしくは真偽についてまつたく無関心な態度で虚偽の事実を公表することによつてなされたことまたは(二)その内容や表現が著しく下品ないし侮辱・誹謗・中傷的であつて社会通念上到底是認し得ないものであることが立証されないかぎり違法と評価しえないものと解するのが相当である。

四本件広告と不法行為の成否

そこで、以上の見地に立つて、本件広告が名誉毀員として不法行為を構成するかどうかにつき順次検討を加えることとする。

(一)  まず、本件広告中、「党綱領」と「連合政府綱領」とを前示のとおりの五項目について引用摘示した対照表についてみるに、疎明資料によれば、右引用摘示は、両綱領の内容をほぼ正確に引用記載したものであると認められる。もつとも、「国有化」の項目において、「党綱領」が「必要之条件に応じて一定の独占企業の国有化」を提起するとしているのに対して、「必要と条件に応じて」の語句を省略して「……一定の独占企業の国有化」と引用摘示していることが認められるが、本件広告における文脈に照らして、右省略によつて、本件広告の一般購読者が、申請人の採択した「党綱領」の「独占企業の国有化」についての本来の趣旨を誤つて理解するおそれはほとんどあり得ないものというべく、したがつて、右省略引用摘示をもつて、ことさら、申請人の「党綱領」の真意を歪曲したものであるとは判断し難い。

(二)  つぎに、「党綱領」と「連合政府綱領」との間に「矛盾」があるとの記載についてみるに、前示の五項目について両綱領間にその文言上差異のあることはその記載からみて一見明白であるから、これを「矛盾」と判断するかどうかは両綱領についての判断・価値評価の問題にすぎないものというべきところ、すでに認定したとおり、「党綱領」は、申請人のなりたちと行動綱領の基本、将来の段階における長期の政治的展望を確認・提示しているものであるに対し、「連合政府綱領」は革新三目標に基づく現段階における当面の国民生活防衛と民主的改革を提案しているものであつて、両綱領はその性質上次元を異にするものであるというべきものであるから、両綱領の基本的な性格を捨象し、単純に同一次元において比較考量して、その差異を「矛盾」と判断・評価することは、いささか、両綱領の真意を善解しない見解であつて、購読者に誤解を抱かせるおそれなしとはいい難いが、本件広告は、両綱領に「矛盾」があると断定しているものではなく、広告提供者が「矛盾している、と私たちは考えます。」との疑問を提示して批判的意見を表明しているものにすぎなく、しかもその疑問の生じた所以を対照によつて明示しているのであるから、いまだこれをもつて内容が虚偽であり、その表現が侮辱・誹謗・中傷であると判断することは許されない。

(三)  つぎに「はつきりさせてください。」との文言についてみるに、この文言は、申請人が「党綱領」と「連合政府綱領」との「矛盾」や連合政府案はプロレタリア独裁への移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりにすぎないのではないかとの「不安」について明解な解答を提示していないとの印象を購読者に与えるものといいうる。ところで、疎明資料によれば、申請人は、「連合政府綱領」を採択した当時から、宮本顕治中央委員会幹部会委員長のあいさつ、上田耕一郎幹部会委員の報告、日本共産党中央委員会理論政治誌「前衛」、機関誌「赤旗」等において、「党綱領」と「連合政府綱領」との関係についての一応の説明を広く世間に公表していることが認められるが、右の説明によつて、一般通常人の多数が「党綱領」と「連合政府綱領」との関連を明確に理解したものとは解し難いことは、疎明資料によつて十分看取しうるところであり、しかも、申請人のこれまでの説明によつて、両綱領の関係が二義を許さないほど明確になつたかどうかは高度な判断・評価の範疇に属することであるから、申請人主張のごとく、両綱領の関係がすでに何らの疑いをさし挾む余地のないほど客観的に明らかにされたものとは断定し難いといわざるを得ない。したがつて、「はつきりさせてください。」との文言が、すでに一義的に明確となつている両綱領の関係をことさら歪曲し、虚偽の事実を不当に宣伝したものとは解することはできない。

(四)  進んで、本件広告本文中の「他の政党や新聞の社説のなかに、疑問と不安を表明しているところもあります。」との記載部分について検討するに、疎明資料によれば、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、日本経済新聞の社説において、申請人の提案した「連合政府綱領」につき疑問と不安を表明していることが確知され、また、民社党、公明党も、その談話、新聞、機関誌において、右綱領に疑問と不安を表明していることも窺われるから、右記載部分は、事実に符合するものと認められ、したがつて、虚偽ではないと判断する。

(五)  さらに、「多くの国民は不安の眼でみています。」および「国民の多くがその点をはつきりしてほしいと望んでいるのです。」という文章の「多く」という文言について検討する。

「多い」という言葉は言語学的には、大層、多量、豊富、一般、普通などを意味する抽象的・多義的な概念であるから、ここにいう「多くの国民」とは国民の中のどの程度の数を指称するものかどうかについては、本件広告の記載からは明らかではないが、これは、要するに、国民の中には不安や希望を抱いている者のあることを強調するための言葉の綾であつて、正確な数量の意味における「多数」を意味するものではないとみるべく、かつ本件広告の購読者もまたそのように理解するものと推認され得るから、敢えてその「真偽」を確定し、その表現の当否をせん索する必要はないと判断する。

(六)  おわりに、本件広告のイラストについて検討する。

右イラストは、その形状、大きさ、配置等に本件広告の趣旨内容を総合的に判断すると、申請人の採択した前示両綱領に「矛盾」があり、その主義・主張には支離滅裂の点があると指摘し、かかる申請人を自然人として表象したものとも窺われ、またそのように理解する購読者のありうることも容易に推認しうるところである。

そして、右イラストは、世上、新聞、雑誌等に散見されるいわゆる「政治漫画」と等しく、ユーモラスな要素を含むとともに若干侮辱的な要素を含むものというべきところ、かかるイラストを真摯な政党の政策に対する疑問・批判としての意見広告にこのように大きくレーアウトとして掲載することは、これによつて、申請人を構成する党員やその支持者に対し主観的に侮辱せられたとの感じを抱かせるとともに、かかる意見広告の読者をして、いささかこれが不真面目なものとの印象を与えて当該意見広告の提供者そのものの品位を低下せしめ、ひいては、前示のごとき公共的使命を持つ被申請人の発行する新聞の報道・評論・広告等の品格を低下せしめ、一般国民の新聞への信頼をも失わしめるおそれのあることを否定しきれないのであるから、被申請人のような真実・公正・品位を重んじる新聞、雑誌を発行する者としては、その掲載する意見広告の内容・表現如何によつては、前示のごときおそれのあることを十分留意し、その取材・編集に当つては万全の注意を払い、慎重なる検討を重ねてこれが採否を決定すべき社会的な責務を負つていることは論を俟たないところ、被申請人提出の疎明資料や本件審尋の結果をみても、被申請人が本件広告を掲載するに当つて、かかる万全の注意を払い、慎重な検討を重ねた末、本件広告を掲載したものとは肯認し難いが、右イラストから受ける客観的印象からすれば、これにより、すでに認定したごとき巨大な組織を備えた申請人が、その社会的評価を著しく低下させられたものとは認め難く、またこれをもつて本件広告が著しく下品ないし侮辱・誹謗・中傷的な意見・内容の広告であると判断することもできない。

以上に検討したところから判断するに、本件広告は、その内容が虚偽の事実に基づくものであるとはいい難く、しかも、その内容や表現方法が著しく下品ないし侮辱・誹謗・中傷的であつて社会通念上到底是認し得ないものであるとも断定し難いから、結局、被申請人の本件広告による名誉毀損行為は違法性を欠くものといわざるをえない。

五結論

以上の判示のとおり、申請人主張の被保全権利については疎明が不十分であり、その性質上、保証を立てしめて右疎明に代えることも相当でないから、その余の点について判断するまでもなく、本件申請はその理由がないものとして、これを却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(塩崎勤 和田日出光 伊藤剛)

別紙第一

自民党の大型広告に反論する

日本共産党中央委員会広報部長

宮本太郎

十二月二日付のサンケイ新聞と日本経済新聞の朝刊に、「前略、日本共産党殿はつきりさせてください」との自民党の広告が掲載されました。ここにあげられている問題はすべて、日本共産党がすでに「はつきりさせて」いる問題ばかりです。したがつてこれにたいしては、わが党としても同じ新聞紙上でこれに必要な反論をくわえざるをえません。

一、すべて解明ずみの議論

自民党の「広告」は、「こんどあなたがたがきめた『民主連合政府綱領』は、多くの点で、あなた方の本来の主張である『日本共産党綱領』と矛盾している」といつて、「矛盾点」なるものを対照表にしてだしています。

民主連合政府は、革新三目標にもとづいて革新勢力がさしあたつて一致できる範囲内のことをやる連合政府です。したがつて、その民主連合政府の共同綱領をつくるためのいわば討議のたたき台としてだしたわが党の「提案」に、党綱領のすべてがもりこまれていないのは当然です。

そもそも政党が、当面の段階の革新連合政府の政策内容としてかかげるものと、もつと将来の段階についての政治的展望とに、ちがいがあることはあたり前のことです。たとえば社会党も、「社会主義革命」を目標とするとしながら、さしあたつては「国民連合政府」をめざすといつています。公明党も「人間性社会主義」をめざすとしながら、「中道革新連合政権」なるものを提唱しています。日本共産党が綱領で民族民主統一戦線政府の目標をかかげながら、さしあたつて他党と一致できる範囲内で民主連合政府をつくろうとよびかけているのは、当然のことで、ここにはなんの矛盾もありません。

このように各党の将来の展望についての「大異」を保留して、さしあたつて一致できる「大同」についてこそ、連合政府をつくることができるのです。

しかも、自民党が「矛盾点」としてあげているすべての項目は、すでに十一月の日本共産党第十二回大会で採択された諸文書で、つぎのように詳細に解明されているものばかりです。

(注) 革新三目標①日米軍事同盟と手を切り、日本の中立をはかる。②大資本中心の政治を打破し、国民のいのちとくらしをまもる政治を実行する。③軍国主義の全面復活・強化に反対し、議会の民主的運営と民主主義の確立をめざす。

(1) 国会の問題

自民党の対照表は、日本共産党綱領が、将来民族民主統一戦線勢力が国会で安定した過半数をしめた場合、国会を「反動支配の機関から人民に奉仕する機関」にかえることができるとのべている点を、民主連合政府綱領で「政権交替制」を認めているのと矛盾するかのように並べています。

このどこに矛盾があるのでしようか?国会が「人民に奉仕する機関」にかわつたあかつきには、国民の意思にもとづく政権交替制がより厳格にまもられるのは自明のことではありませんか。

(2) 自衛隊の問題

自民党は、共産党綱領が自衛隊の「解散」をいつているのに、民主連合政府が「縮減と基地の縮小」としているのは、「矛盾する」と称しています。

これも矛盾でもなんでもなく、すでに公式文書でつぎのように明確に説明してあることです。「自衛隊にたいする政策は、現在、日本共産党、社会党、公明党のあいだにも一致点とともにいくつかの不一致点がある。日本共産党は、現憲法のもとで自衛隊の解散を主張し、社会党、公明党は、その『国民警察隊』あるいは『国土警備隊』への縮減切りかえを主張している。しかし、民主連合政府としては、なによりもまず、当面、革新統一戦線として一致できる範囲で、日本軍国主義の復活を阻止する効果的な措置をとり、そして国民世論が成熟し、統一戦線を構成する政党間の一致がえられた場合、憲法の規定にもとづく自衛隊解散を実現できるようにすべきであろう」(『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』を発表するにあたつて」)

(3) 安保条約の問題

自民党は、わが党綱領が安保条約を「破棄する」としているのと、民主連合政府綱領提案が「国会の承認をえて」アメリカ政府に「終了通告」するとしているのが、「矛盾」であるかのようにみせかけています。

「破棄」と、それを実行する具体的手順とが「矛盾する」などという話は、きいたことがありません。これについても、すでに党大会で公式につぎのように説明してあるところです。

「民主連合政府が勝利すれば、法的にも、国民の審判の結果からも、即時に安保条約第十条にもとづく廃棄が可能ですが、わが党の『提案』は、『国会の承認をえて』として、安保をめぐるあらゆる問題点を国会の審議をつうじて国民のまえであきらかにしたうえで、日米軍事同盟の解消をおこなうことを提唱しています。これは、安保廃棄が国民世論の圧倒的支持を必要とする大事業であるだけに、必要な手順だと思います」(日本共産党第十二回大会での上田耕一郎幹部会委員の報告)

(4) 国有化の問題

自民党は、わが党綱領が「必要と条件におうじて、一定の独占企業の国有化」を提起するとのべているのを、「必要と条件におうじて」の字句をわざとけずつて引用し、一律に国有化しようとしているかのようにえがきだしています。そのえうで、民主連合政府の段階で「エネルギー産業の主要な大企業の国有化」だけを提案しているのと、「矛盾する」などといつています。これも一見してわかるようになにも矛盾のないところに「矛盾」をつくりだしたものです。

(5) 天皇の問題

自民党の対照表は、民主連合政府が「天皇の国政関与を禁止した憲法第四条、国事行為の範囲を規定した第七条を厳格にまもる」としている部分と、わが党綱領が「君主制を廃止し……」とのべている部分とを対置して、それぞれに「天皇を認めている」「天皇を認めていない」という注釈までつけています。

これもすでに大会で、つぎのように解明ずみのことです。

「現行憲法の天皇条項をわが党が支持していないことはいうまでもありません。同時に提案は、すでにのべた憲法についての三つの態度(憲法改悪反対、平和的民主的条項の完全実施、政府としての現行憲法の尊重と擁護)ですべての革新勢力の一致をはかる観点で、天皇の国政関与を禁止した憲法条項の厳守を政策として提案しました。……現在わが党の独自の主張である天皇制の廃止には賛成できなくても、天皇の政治的利用に反対することでは、国民の大多数が一致できるでしよう」(第十二回党大会での上田幹部会委員の報告)

二、わが党の本来の立場

自民党の広告は、「連合政府案は、プロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりにすぎない」などといつています。しかも、「革命」は恐ろしい「独裁」になるぞと読者につよく印象づけようとして、すでにわが党の原語の意味を正しくあらわしていない不適切な訳語だとして「執権」にあらためた、「独裁」という古い訳語までもちだしています。

しかし、わが党が民主連合政府綱領提案にかがげている、当面する国民生活の防衛と民主的改革の課題は、党綱領のかがげる徹底した民生的変革、つまり革命の課題のためのたんなる「踏み台」でも「足がかり」でもありません。

このこともすでに、第十二回大会での宮本委員長のあいさつで、つぎのように公式にあきらかにしてあるところです。

「日本共産党の立党の精神は、つねに、日本国民の当面する現実の苦難の軽減と国民の生命と安全の擁護、新しい合理的な日本の建設、世界平和の擁護という課題の実現のために献身するということであります。……つまりわれわれは、わが党の存在意義そのものを、なによりも、その時期、時期の国民のもつとも切実な利益と安全に奉仕するところにおいています」「このようなわが党の態度は、日本の社会を国民のために合理的に発展させ変革しようとするわが党の崇高な未来への綱領的展望や活動といささかも矛盾するものではありません」。

このように、民主連合政府綱領提案のかかげる諸課題の実現のためにたたかうことは、それ自体がわが党の本来の任務です。そのことは、戦前の絶対主義天皇制の暗黒支配のもとで国民主権と侵略戦争反対、生活と権利のために一貫してたたかい、戦後も国の独立と平和、「高度成長」の名による国土破壊と国民収奪の政策への反対のためにたたかいぬいてきた五十一年間の歴史の事実が、なによりもよく証明しています。

もちろん、日本共産党は独立・民主の日本をうちたてる革命をめざしていますし、そのことを少しもかくしてはいません。現にこの大型広告自身が党綱領の内容として引用しているように、わが党のめざす革命の内容は広く国民の前に公表されています。

わが党のめざす独立・民主日本は、国民が真に国の主人公となり、日本がアジアと世界の平和のいしずえとなり、日本の経済と文化の繁栄、国民生活の向上が実現するもので、自民党がふりまく“恐ろしい”とか“独裁”とかのイメージとは正反対の、夢と希望にみちた社会です。さらにそれが社会主義・共産主義へと発展していけば、かつてない物質的繁栄に裏づけられて、人類の知恵と能力が無限に花開く社会が実現するでしよう。

別紙第二  仮処分申請書

申請の理由

一、当事者

(一) 申請人は、大正十一年七月十五日、日本の労働者階級と人民を、支配階級の搾取と抑圧から解放し、日本に民主主義・社会主義社会を建設することを目的として、創立された政党である。

戦前は、絶対主義的天皇制の苛酷な弾圧をうけながらも、自由と民主主義を求めて闘い、またすべての侵略戦争に反対して平和とアジア諸国民族の独立のために闘つた。

戦後は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配と収奪に反対し、日本の真の独立、平和、民主主義、人民の生活向上のため闘つてきた。

昭和三十六年七月、第八回党大会において、日本共産党綱領(以下党綱領とよぶ)を確定し、昭和四十八年十一月、第十二回党大会(以下十二回党大会とよぶ)において、民主連合政府綱領についての日本共産党の提案(以下政府綱領提案とよぶ)を採択した。

(二) 被申請人は、昭和三十年二月に設立された新聞発行など目的とする株式会社で、日本新開協会に加盟し、現在、サンケイ新聞を発行し、これを全国各地で販売させている。発行部数はおおよそ二百万部といわれている。

日本新聞協会は、昭和二十一年七月二十三日新聞倫理綱領を、昭和三十三年十月七日新聞広告倫理綱領を、昭和四十一年十月二十六日新聞広告倫理綱領細則を制定し、加盟各新聞社がこれに従うよう求めている。

被申請人は、日本新聞協会の定める前記の各倫理綱領を、補充して自ら「サンケイ新聞社広告倫理綱領」を定めている。

二、本件広告の掲載

被申請人は、自社発行の昭和四十八年十二月二日付サンケイ新聞紙、朝刊紙上に、つぎの広告を全七段の大きさで掲載した(以下、本件広告とよぶ、疏甲第一号証)。

1 宛名 「前略 日本共産党殿」(全文五十級写植文字)

2 キャッチフレーズ 「はつきりさせてください。」 (全文書き文字)

3 本文見出し 「多くの国民は不安の眼で見ています」(全文ゴジック写植二十八級文字)

4 本文 「こんどあなた方がきめた『民主連合政府綱領』は、多くの点で、あなた方の本来の主張である『日本共産党綱領』と矛盾している、と私たちは考えます。他の政党や、新聞の社説のなかに、疑問と不安を表明しているところもあります。『連合政府綱領』と『党綱領』の主な矛盾点を要約して表にすると、上のようになります。上の段と下の段は両方とも、あなた方が言つていることなのです。連合政府案は、プロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりにすぎないのではないか? 国民の多くが、その点をはつきりしてほしいと望んでいるのです。」

(全文明朝写植十八級文字)

5 対照表

民主連合政府綱領

日本共産党綱領

国会

総選挙による国民の審判にもとづく政権交代制がまもられる

反動支配の機関から人民に奉仕する機関にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる

自衛隊

縮減と基地の縮小を行う

解散を要求する

安保

国会の承認をえて、アメリカ政府にたいし……終了させる意思を通告する

いつさいの売国的条約・協定の破棄……のためにたたかう

国有化

重要産業の国有化については慎重な態度をとるが……エネルギー産業の主要な大企業の国有化が必要であり……。

重要産業……の国有化への移行をめざし……一定の独占企業の国有化とその民主的管理を提起してたたかう

天皇

……憲法第四条……第七条を厳格にまもる (天皇を認めている)

……君主制を廃し……人民共和国をつくり…… (天皇を認めていない)

(全文写植十六級文字)

6 イラスト 顔の右半分が支離滅裂に歪んだ福笑いにワイシャツのえりとネクタイをつけた構図

7 スローガン 「自由社会を守るキャンペーン」 (全文写植二十八級文字白ぬき凸版)

8 広告提供者 「自由民主党」 (全文ゴジック書き文字凸版)

9 提供者の形容 「自由社会を守る」 (全文写植四十四級文字)

10 提供者の住所 「〒100東京都千代田区永田町1丁目11番23号」 (全文写植十八級文字)

11 広告の表示 「意見広告」 (全文写植三十二級文字)

三、名誉毀損の成立  不法行為

被申請人は、本件広告掲載によつて、つぎのとおり、故意に、申請人の公党としての名誉をいちじるしく傷つけた。

1 広告の基本的特徴

およそ、広告は、各種マス・メディアの利用型態のなかでも、宣伝効果自体を最も大きな目的とする伝達の型態であり、その宣伝目的は、アピールの強さによつて達成される。

広告におけるアピールの強さは、通常、抽象や省略など、さまざまな手法の工夫によつて生みだされる。そこで広告の内容は、多かれすくなかれ、ことばや形象によつて直接的に語られている範囲をこえているのが普通である。

これらの点において、広告は、たとえば、思想の表現自体を主な目的とし逐一的な叙述を必要とする評論などとは、表現型態のうえで、ちがつた特徴をもつている。

つまり、広告は、明確な宣伝目的のもとで、そのため各種の素材が組み立てられ、総合的なアピールの統一体として構成されているのであつて、その構成された総体が外部に表現された広告の客観的な内容となる。

したがつて、広告の各種構成要素を部分的にとられたり、他の構成要素から分離してとらえてみても、決してその広告の内容を正確に把握することはできない。

本件広告の内容についても、その客観的内容はこのような基準によつて検討される必要がある。

2 本件広告の異常性

一般に、意見広告とは、広告提供者の主義・主張・政見などを広告の型態によつて宣伝するものだといわれている。

ところが、本件広告は、つぎの点において、きわだつた異常性を示している。

(1) 自由民主党の政見が「自由社会を守る」という、その提供者に冠せられた短い形容句をのぞいて、ひとことも宣伝されていないこと。

(2) その内容において申請人が名指しで特定されていること。

つまり、本件広告は、広告提供者である自由民主党の政見を宣伝するものではなく、申請人に対する批判・攻撃だけを専一の目的とする広告であつて、本来の意見広告の範囲をまつたく逸脱しているものである。

しかも、本件広告は、全七段という大型であり、そのことだけでも、本件広告によるアピールの強さは顕著である。

こうして、本件広告の総合的で統一的な内容は、すべて、自由民主党によるこのような申請人への強烈な批判・攻撃という宣伝目的にしたがつて把握されるほかはない。

3 党綱領と政府綱領

ところで、本件広告は、その批判・攻撃を、党綱領(疏甲第二号証)と政府綱領提案(疏甲第三号証)との関係にむけている。

党綱領は、独立、民主日本、さらに終局的には社会主義、共産主義社会、つまり一切の強制のない真に平等な人間関係の社会をめざす政党として申請人の立党の精神と目的を明らかにし、内外の諸情勢とわが国の支配権力を科学的に分析し、労働者階級と党の任務および革命の路線を確定したものであつて、申請人にとつては、そのなりたちと目標をしめす最も基本的な文書である。

これに対して、政府綱領提案は、革新三目標にもとづき、革新諸勢力が、現在、さしあたつて一致できる範囲内で政治をおこなう連合政府の綱領に関する提案であり、当面の段階の革新連合政府の政策内容について日本共産党の提案として、前述のとおり、第十二回党大会で採択されたものである。(疏甲第三、第四号証の一、二、疏甲第六号証)

革新三目標とは次のとおりである。

(1) 日米軍事同盟と手を切り、日本の中立をはかる。

(2) 大資本中心の政治を打破し、国民のいのちとくらしをまもる政治を実行する。

(3) 軍国主義の全面復活・強化に反対し、議会の民主的運営と民主主義の確立をめざす。

つまり、党綱領が当面の行動綱領とともに、将来の段階における長期にわたる政治的展望として徹底した民主的変革、さらに社会主義、共産主義の展望を提示しているのにたいし、政府綱領提案は現在の段階における当面の国民生活防衛と民主的改革を提案しているのであつて、この党綱領と政府綱提案との関係は、公党としての申請人の生命線にかかる最も重大な問題である。

この党綱領と政府綱領提案との関係については、つぎのとおり、すでに十二回大会で明確にされていた(宮本顕治中央委員会幹部会委員長のあいさつ。)。

「日本共産党の立党の精神は、つねに、日本国民の当面する現実の苦難の軽減と、国民の生命と安全の擁譲、新しい合理的な日本の建設、世界平和の擁譲という課題の実現のために献身するということであります。……つまりわれわれは、わが党の存在意義そのものを、なによりも、その時期、時期の国民のもつとも切実な利益と安全に奉仕するところにおいています。」(疏甲第五号証)

「このようなわが党の態度は、日本の社会を国民のために合理的に発展させ変革しようとするわが党の崇高な未来への綱領的展望や活動といささかも矛盾するものではありません。」

他方、当面の行動綱領をもちつつも長期にわたる政治的展望のもとに、日本のすすむべき進路の全体をあきらかにした党綱領と、当面のさしせまつた課題を解決すべき民主連合政府の政策にかんする政府綱領提案とが、全体としての当然の関連性をもちつつもその性格の相違に応じて、おのずから同じでないことも当然の事理である。

つまり政府綱領提案は、革新三目標にもとづきすべての革新政党と革新的政治勢力が一致しうる政策を体系的に提示したものであるから、党綱領のしめす申請人に独自の長期的目標それ自体と同じであるはずはないのは当然である。そしてその相違とは、けつして「矛盾」ではない。

しかるに本件広告は、このように、公党としての申請人の生命線にかかわる二つの綱領の関係について、「矛盾している」と明記し、「自由社会を守るキャンペーン」というスローガンのもとで、批判・攻撃を展開しているのである。

それは、申請人が国民に提案している政府綱領提案が、党綱領と矛盾するものであり、国民を「甘い言葉」で偽まんしてプロレタリア独裁(執権)を実現することによつて、国民の自由を抑圧する社会の実現をねらつているものである、という趣旨の、事実に反するキャンペーンにほかならない。

4 事実の歪曲とデモ宣伝

そこでさらに、申請人の党綱領と政府綱領提案との間に本件広告が提示しているような「矛盾」がはたして存在しているのかを、検討してみよう。

(1) 国会の問題

党綱領が示しているように、国会が真に「人民に奉仕する機関」にかわつたときには、国民の意思にもとづく政権交代が最も厳格にまもられることになるのであつて、このことは自明であり、政府綱領提案との間にはすこしの矛盾もない。これを「矛盾」とするとらえ方は、党綱領が実行されるときには、政権の交代などありえないという前提があつてはじめて成立するのであり、その意味で、本件広告のこの部分は党綱領を歪曲しているものといわなければならない。

(2) 自衛隊の問題

この問題についても、矛盾はなく、申請人の第十二回党大会で採択された公式文書で、つぎのように明確に説明されている。

「自衛隊にたいする政策は、現在、日本共産党、社会党、公明党のあいだにも一致点とともにいくつかの不一致点がある。日本共産党は、現憲法のもとで自衛隊の解散を主張し、社会党、公明党は、その『国民警察隊』あるいは『国土警備隊』への縮減切りかえを主張している。しかし、民主連合政府としては、なによりもまず、当面革新統一戦線として一致できる範囲で、日本軍国主義の復活を阻止する効果的な措置をとり、そして国民世論が成熟し、統一戦線を構成する政党間の一致がえられた場合、憲法の規定にもとづく自衛隊の解散を実現すべきであろう」(「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』を発表するにあたつて」)(疏甲第四号証の二)

(3) 安保条約の問題

政府綱領案は、つぎのとおり、安保条約破棄の具体的な手順を示しているのであつて、ここにも矛盾などありえないことが一見して明白である。

「民主連合政府が勝利すれば、法的にも国民の審判の結果からも、即時に安保条約第十条にもとづく廃棄が可能ですが、わが党の『提案』は、『国会の承認をえて』として、安保をめぐるあらゆる問題点を国会審議をつうじて国民のまえであきらかにしたうえで、日米軍事同盟の解消をおこなうことを提唱しています。これは安保廃棄が国民世論の圧倒的支持を必要とする大事業であるだけに、必要な手順だと思います」(十二回党大会、上田耕一郎幹部会委員の報告「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について」、疏甲第六号証)

(4) 国有化の問題

本件広告は、党綱領が、「必要と条件におうじて一定の独占企業の国有化」を提起するとのべている部分から、故意に「必要と条件におうじて」という部分を削除して引用し、一律的な国有化を提案しているようにえがきだしている。ここでは、党綱領と政府綱領提案との間にすこしも矛盾が存在していないだけでなく、これを矛盾とととらえることによつて、党綱領の歪曲が導かれている。

(5) 天皇の問題

これも、すでに、十二回党大会で解明されている。

「現行憲法の天皇条項をわが党が支持していないことはいうまでもありません。同時に提案は、すでにのべた憲法についての三つの態度(憲法改悪反対、平和的民主的条項の完全実施、政府としての現行憲法の尊重と擁護)ですべての革新勢力の一致をはかる観点で、天皇の国政関与を禁止した憲法条項の厳守を政策として提案しました。……現在わが党独自の主張である天皇制の廃止には賛成できなくても、天皇の政治的利用に反対することでは、国民の大多数が一致しうるでしよう。」(十二回党大会、上田耕一郎幹部会委員、前同)

(6) デマ宣伝の本質

こうして、本件広告が列挙したどの問題についても、党綱領と政府綱領提案との間には、いかなる矛盾も存在していない。

したがつて、本件広告がこれらの問題について、「矛盾している」と明記し、「矛盾している」というために党綱領を歪曲したことは、明らかに、事実を歪曲し、事実に反した宣伝をおこなつたものといわなければならない。

この点について、被申請人は、つぎのように弁解している。

「共産党では解決ずみの問題であつても、国民すべてがこれを理解しているとはいいがたい。こうした矛盾点を自民党が疑問視し、問いかけたとしても、これをひぼう中傷といえるであろうか」(昭和四十八年十二月二十九日付、サンケイ新聞、主張欄、疏甲第七号証)

被申請人が本件広告について、このような弁解しかできないということは、被申請人は、みずから、本件広告によるデマ宣伝の実態を告白したものというべきである。

すでにみてきたように、党綱領と政府綱領との関係については、申請人のいく多の公式説明が現に存在しているからである。

そして、これらについてはすでにひろく一般新聞に報ぜられたばかりでなく、申請人の機関紙「赤旗」には詳細な報道がおこなわれている。

もし、党綱領と政府綱領提案との間に矛盾があると主張するのであれば、当然、それらの公式説明について疑問を提起することが公正な態度というべきである。

申請人によつてそれらの公式説明がくり返えしおこなわれてきたという事実が存在しているのに、そのすべてを無視し、それらの事実が存在していないかのようにみせかけて、「矛盾している」などと宣伝することは、申請人にごまかしやかくしごとがあるということになるのであつて、明白に、デマそのものであるといわざるを得ない。

被申請人が主張するように、「国民すべてがこれを理解しているとはいいがたい」状況があるとするならば、デマ宣伝による申請人の被害はいつそう大きくなる。

5 キャッチフレーズの正体

広告の宣伝目的と機能からみて、キャッチフレーズこそは、広告の主柱である。

とりわけ本件広告はそのキャッチフレーズに特異なものがあるのであつて、その真意と趣旨を正確にとらえることは最も大きな問題である。

「はつきりさせてください。」という、このキャッチフレーズには、本件広告のテーマが集約されている。

それを明らかにするためには、まず、「多くの国民は不安の眼で見ています」という本文の見出しを検討しておく必要がある。

本件広告は、なにが「不安」であるのかについて、政府綱領提案は「多くの点で、あなた方の本来の主張である」党綱領と「矛盾している」からであり、「連合政府案は、プロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりにすぎないのではないか」という。

つまり、本件広告は、政府綱領提案は申請人の「本来の主張」と「矛盾している」のだから、それはたんなる「踏み台」、「足がかり」にすぎないのではないか、とアピールしているのである。

したがつて、本件広告によれば、「多くの国民が不安の目で見て」いるのは、党綱領と政府綱領提案との関係において、申請人が国民に「本来の主張」をかくしてウソをつき、国民をごまかそうしているためだ、ということに帰着せざるをえない。この「多くの国民は不安の眼で見ています」という本文見出しを、これ以外の趣旨で読むことは、客観的に不可能である。

本件広告のキャッチフレーズは、まさに、そのことを「はつきりさせてください」と叫んでいるのである。

「はつきりさせてください」というアピールには、申請人になにかごまかしやかくしごとがあり、申請人がウソをついているのだという前提がある。その前提がなければ、このアピールは、もともと、成立しないのである。

したがつて、「はつきりさせてください」という、このキャッチフレーズは、明らかに、申請人にむかつて、「ごまかしたり、かくしたり、ウソをついている」と中傷し、国民に対しては「日本共産党にだまされてはいけませんよ」と宣伝していることになる。

そして、もし、申請人が本件広告に対して回答しなければ、やはり自由民主党の宣伝のとおり、申請人にはごまかしやかくしごとがあつたのだ、ということにならざるをえないしくみになつている。

これは、もはや、十分に公党としての申請人に対する中傷、ひぼうを構成するものといわなければならない。

このことが本件広告のテーマであることは、イラストによつても端的に示されている。顔の右半分が大きく歪んでいるこの福笑いのイラストは、その誇張された形象によつて、申請人が大きく矛盾し歪曲した存在であるという印象をあおるとともに、まぎれもなく、申請人に対する嘲笑を表現しているのであつて、本件広告の中傷性をあますことなく象徴している。

6 名誉毀損の構造

以上の点を総合することによつて、本件広告の統一的な構成をはつきりさせてみよう。

(1) 本件広告は、全七段の大型広告であり、申請人に対する強烈な批判・攻撃だけを至上の宣伝目的としている。

(2) その批判・攻撃は、申請人の党綱領と政府綱領提案にむけられ、「自由社会を守るキャンペーン」の一環とされている。

(3) 宣伝の手法は、申請人の党綱領と政府綱領提案との関係を歪曲し、存在しない矛盾を存在するかのようにみせかけるデマである。

(4) これらを統一する本件広告のテーマは、申請人に対してはごまかしがあると主張し、国民に対しては申請人にだまされるなとアピールすることにある。

これが外部に表現された本件広告の客観的な内容である。本件広告の内容をこれ以外に把握できないことは、のちにのべる本件広告にかんする各界の意見によつても、的確に示されている。このようなデマ宣伝が、公党としての申請人の生命線ともいうべき党綱領と政府綱領提案に対しておこなわれている以上、これはもはや申請人に対する重大かつ明白な中傷・ひぼうであることは明らかである。これは、どこからみても、意見広告の範ちゆをはるかにこえるものというべきである。

その違法性は、本件広告による宣伝が、事実に反しているということ、きわめて多数の人びとを対象としていることなどの点において、いつそう強められるであろう。

とくに、社会の「公器」とよばれている新聞紙が、本件広告に利用されたという点は、本件広告の違法性をいちじるしく大きなものとしている。

申請人は、その長期の展望については党綱領にそのすべてをつくして明らかにしており、当面の任務については革新三目標にもとづく民主連合政府の樹立をめざし、その政府綱領提案をしめして、広汎な国民による討議を期待しながら、全党をあげて政治活動を展開している。申請人にとつて、党綱領と政府綱領提案とは、その存立の基礎と、当面の政治活動のすべてをおおうものである。この二つのものの間に、ありもしない「矛盾」があるかのようにいう本件広告が、国民の申請人に対する政治的信頼をきずつけ、その名誉をいちじるしく毀損したことは明らかである。

四、本件広告の手段・方法における著しい不公正と不当性

本件広告が、その内容において申請人の名誉を毀損し、民法第七〇九条、同第七二三条の不法行為に該当することは、すでに述べたところで明らかである。しかも、本件広告は、以下にみるとおり、その手段・方法において、著しく不公正かつ不当なものである。

このことは、一面で、広告本件による申請人の名誉権侵害の強さ、悪質さを補強するものであるとともに、他面、それだけをとりあげても、のちにみるとおり強度の違法性をもち、優に不法行為を成立させるに足る。

1 泣寝入りの強要

本件広告の手段・方法における著しい不公正と不当性とは何か。

まず、本件広告は、申請人の名誉を毀損し、多大の損害を与えながら、申請人に対しこれを回復するみちをひらいていないことである。

すなわち、本件広告は、七段抜きの大きさで「前略 日本共産党殿 はつきりさせてください」との大見出しと二段抜きの大きさの「多くの国民は不安の目で見ています」との中見出しを掲げ、本文のなかでは、前述のとおり申請人の基本的政策に重大な「矛盾」があるかのように指摘し、この「矛盾」について申請人が回答しないかぎり申請人の「(民生)連合政府案は、プロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりにすぎない」(傍点引用者)ことを申請人が自認したものと理解されるような構成をとつたうえ、「国民の多くが、その点をはつきりしてほしいと望んでいるのです」として、申請人に対し、これについての回答ないし反論を求めているのである。

サンケイ新聞の公称発行部数は約二〇〇万部であるから、本件広告は、すでに数百万の国民の目に触れているものとみてよい。(疏甲第八号証の一)新聞広告の内容がいかに理解されるかは、あくまで一般公衆解の理解と社会の一般通念を基準として判断すべきであり、特殊な広告専門家の理解の仕方を基準とすべきではない。したがつて、前記のとおり申請人に対し回答を迫つた本件広告に対し申請人が回答ないし反論をしないかぎり、本件広告を素直に読んだ数百万の国民は、申請人の基本的政策には矛盾があり申請人自身そのことを認めざるをえない事情にあるものと判断することになる。このような状態を、本件広告は意図して醸成したのである。

ところが、本件広告を掲載した被申請人は、広告自体のなかで回答を要求され、回答をしないかぎり自党の政策の矛盾を認めたかのように国民一般に理解されるように追い込まれた申請人に対し、なんらこれに対する回答・反論の途をひらいていないのである。

すなわち、のちにも述べるとおり、本件広告に対し申請人が回答・反論する方法として被申請人が提案しているのは、申請人が被申請人に広告料を支払つて「サンケイ」新聞紙上に広告を掲載するというものである。

しかし、これが申請人に対するまともな権利回復の方法とはとうてい言いえないこと、あまりにも明瞭である。申請人は、被申請人の掲載した本件広告によつて損害を受けている被害者である。その申請人が、加害者たる被申請人に対し、一回三〇八万円(疏甲第九号証)もの多額の広告料を支払つて反論の広告を掲載しなければならない、いかなる理由もないのである。

しかも、ひとたび申請人がこれに応じたならば申請人自身が本件広告のようなやり方を認めたことになり、大企業から巨額の政治資金を受けていることを隠そうとしない自由民主党との際限のない「広告合戦」のなかにひきこまれざるをえないことになる。ちなみに、自民党は参議院選挙へむけての長期計画として広告計画をもつており、今回の広告はその第一回であつた。また、一月二十六日付「朝日新聞」によれば、自民党が七三年に国民協会を通じて受取つた政治資金は約二〇〇億円にのぼるという(疏甲第十号証)。

申請人がこれに応じられないことは明らかである。しかし、これに応じないかぎり、本件広告によつてつくりだされた、申請人の政策には矛盾があるのではないかとの国民の疑問は解消されず、申請人の回答・反論が掲載されるのが遅れればおくれるほど、申請人自身もその矛盾をみとめたものと受取られることになるのである。

このように、一方で正面から「はつきりさせてください」と申請人の回答を迫りながら、他方でその手段を保障しない、本件広告のようなやり方は、結局、被害者である申請人に「泣寝入り」を強要するものであり、きわめて不公正な、反社会的なものといわざるをえない。

2 商慣習違反

つぎに、本件広告の不公正と不当性は、一方ですでに見てきたように、あたかも申請人の政策に矛盾があるかのように断じながら、他方で、それとの対比において「自由社会を守る自由民主党」とかくことによつて、広告提供者である自由民主党の優位性を読者に印象づける手法をとつていることにある。

およそ商業広告についても、もつぱら同業他社の製品の欠陥や弱点を指摘するやり方は、最も反道義的なこととして商慣習上とうてい認められないところである。まして本件広告のように、一言半句も自党の政策、理念をのべることなく、もつぱら他党のそれを故意に歪曲して批判、攻撃し、読者に誤解を誘発させようというやり方が、どうして許されるだろうか。

こうして、本件広告は、その内容が申請人の名誉権等を侵害しているばかりでなく、その手段・手法が著しく不公正であり不当であることによつて、強度の反社会性をおびるものとなつている。

五、本件広告の手段・方法の違法性と不法行為

本件広告の手段・方法が著しく公正を欠き不当なものであることについては、すでに述べたとおりであるが、その不公正・不当性はたんに被申請人の道義的責任を発生させるだけでなく、違法な利益侵害として、それだけで不法行為責任を生じさせるものである。

1 新聞の「公器」性

新聞は、自由な民主主義社会の正しい発展のために欠くことのできないものである。国民は、新聞によつて国の内外にわたる情報に接し、政治・社会・文化などの諸問題についての知識を得る。そのことによつて、自己の意見と判断を形成し、主権者として政治に参加するのである。ラジオ・テレビ等の発達にもかかわらず、新聞のはたすこのような役割はすこしも変わつていない。

同時に、新聞は、多数の読者を対象とし、社会的に高い権威をもち、読者の信頼感もあついものであるから社会的影響力が大きく、誤つた報道、偏つた評論あるいは不当な広告等により、社会に混乱をまきおこし個人の権利を侵害するなど、好ましくない事態を惹きおこす可能性も大きい。したがつて、その責任はきわめて重大である。

しばしば、「新聞は社会の公器である」といわれるのは、新聞のもつこのような性格から、社会における公共的役割を表現し、その責任の大きさを指摘したものである。

社会の「公器」としての新聞は、いうまでもなく、憲法によつて言論の自由を保障されているが、近年これをたんに新聞の「自由」としてだけでなく国民の「知る権利」の保障としてとらえ、ニュース・ソースの秘匿権など特別の法的保護を与えるべきだとする考え方が強まつている。

さらに新聞は、その公共的性格にかんがみて、国または地方団体から多くの特曲と保護を受けている。

すなわち、新聞事業は、地方税法第七二条の四第二項一号により事業税を免除され、「旅客及び荷物営業規則」(昭和三三年九月二四日、日本国有鉄道公示第三二号)第三五三条第一項により、新聞輸送の運賃計算その他について特別に有利な取扱い受けている。また「日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社及び有限会社の株式及び持分の制限等に関する法律」(昭和二六年六月八日、法律第二一二号)第一条によつて、新聞事業を目的とする株式会社または有限会社は、商法の強行規定に反して、株式の譲渡を制限することが認められている。これは、新聞を、金権勢力による買収から保護するためのものである。

2 新聞の責任

それでは、このような法的保護を受けている新聞は、社会に対する責任を法的に負つていないのであろうか。そうではない。

たしかに、現在、かつての「新聞紙法」のような、新聞事業一般を規律する法律は存在しない。しかし、このことは、新聞がなんの法的責任をも負わないことを意味するものではなく、一方、かつての「新聞紙法」などが権力による言論抑圧につかわれた経験に学び、他方で新聞自身の良識にもとづく自律に期待したためなのである。

新聞の自律的規範としては、被申請人をふくむ全国の日刊新聞社によつて設立されている日本新聞協会の制定した前記「新聞倫理綱領」、「新聞広告倫理綱領」および「同細則」がある(疏甲第十一号証ないし第十三号証)。

「新聞倫理綱領」は、新聞のあるべき姿を示す。権威のある基準として、四半世紀以上の試練のなかで確立された、いわば「新聞の憲法」ともいうべき存在である。「新聞広告倫理綱領」および「同細則」も、この精神を新聞広告について適用・具体化したものである。これらは一体として、報道、評論、広告などの許容限度を示す指標、逆にいえばこれをこえれば反社会的性格をおびるものと許価される指標を示している。

したがつて、これら「新聞倫理綱領」などは、記者、編集者はもとより、広告管理者をふくむ新聞社の全従業者がまもるべき活動の基準である。広範な新聞の読者もまた、その具体的内容までは詳細に知らないとしても、新聞に掲載された記事、評論、広告などは公正・適切な、しかるべき基準にてらして選択されたものと信じ、高い信頼を寄せてきているのである。

要するに、「新聞倫理綱領」などは、それ自体確立した社会規範であるとともに、新聞関係者がこれらの規範に準拠して行動することは、法例第二条の慣習法または民法第九二条にいう「事実たる慣習」として確立しているものといわなくてはならない。

3 本件広告の倫理綱領等違反

本件広告は、その内容および手法において前記「新聞倫理綱領」「新聞広告倫理綱領」「同細則」に著しく反するものである。

「新聞倫理綱領」は、「本綱領を貫く精神、すなわち自由、責任、公正、気品などは、ただ記者の言動を律する基準となるばかりでなく、新聞に関係する従業員全体に対しても、ひとしく推奨さるべきもの」としたうえで、その前文において「新聞は高い倫理水準を保……(た)なければならない」と述べ、さらにつぎのように規定している。

「第三 評論の態度 評論は世におもねらず、所信は大胆に表明されねばならない。しかも筆者はつねに訴えんと欲しても、その手段を持たない者に代わつて訴える気概をもつことが肝要である。新聞の公器たる本質は、この点にもつとも高く発揚される。

第四 公正 個人の名誉はその他の基本人権と同じように尊重され、かつ擁護さるべきである。非難されたものには弁明の機会を与え、誤報はすみやかに取り消し、訂正されなければならない。

第六 指導・責任・誇り 新聞が他の企業と区別されるゆえんは、その報道、評論が公衆に多大な影響を与えるからである。

公衆はもつぱら新聞紙によつて事件および問題の真相を知り、これを判断の基礎とする。ここに新聞事業の公共性が認められ、同時に新聞人独特の社会的立場が生まれる。そしてこれを保全する基本的要素は責任観念と誇りの二つである。新聞人は身をもつてこれを実践しなければならない」と。

「新聞広告倫理綱領」は、「日本新聞協会加盟の新聞社は『新聞倫理綱領』の精神にのつとり、新聞広告のになう社会的使命を認識して、常に倫理の向上と健全な発達に努め、もつて公衆の信頼にこたえなければならない」としたうえで、「三、新聞広告は、他の名誉を傷つけ、あるいは不快な印象を与えるものであつてはならない」と規定する。

「新聞広告倫理綱領細則」は、「綱領三により次のものは掲載を拒否または保留する」として「(11) 名誉棄損またはプライバシー侵害となるおそれがあるもの……」「(13) 自己の優位性を強調するために、他を中傷したり、引き合いに出したもの」「(14) 事実の有無にかかわらず、一方的・暴露的な内容・目的をもつたもの」を列挙している「同細則」はまた、「以上のほか関係諸法規に違反……するようなものは、掲載を拒否または保留する」とし、さらに「なお、新聞倫理綱領ならびに新聞広告倫理綱領の精神にのつとり、各新聞社が具体的に定めた掲載基準などに反するものは当然掲載を拒否または保留する」として各社の社内基準の規範性を承認している。

そして、被申請人は、みずから「一、サンケイ新聞社広告倫理綱領」(疏甲第十四号証)を定め、「サンケイ新聞の広告は常に公正にして真実をつたえるものでなればならない。二、サンケイ新聞の広告は……責任の負えるものでなければならない。三、サンケイ新聞の広告は社会道義……を害したり、また関係法規に反するものであつてはならない。……五、サンケイ新聞の広告は他の名誉を傷つけ……るものであつてはならない」などと規定している。この社内基準も、また、被申請人の自己規制として規範的効力をもつものである。

なお、民間放送各社によつて構成される日本民間放送連盟が定める「放送基準」(疏甲第十五号証)は、つぎのように規定している。

「綱領 6広告は、真実を伝え、視聴者に利益をもたらすようにつとめる」

「基準 一章 人権の尊重 (1) 個人や団体の名誉を重じ、これを軽視するような取り扱いはしない」

「同 一一章 広告の責任 (86) 広告は事実の有無を問わず、他をひぼうし、または排斥、中傷してはならない」

「同 一二章 広告の取り扱い (93) 番組およびスポットの提供については、公正な自由競争に反する独占的利用を認めない。(独占禁止法)

(94) 事実を誇張して、視聴者に過大評価させるものは取り扱わない。(不当表示防止法)

なるほど、放送は、民間放送といえども免許事業であり、新聞事業とすべての問題について同一に論じることはできない。しかし、右のような、人権の尊重や広告の責任、取扱いなどに関しては、免許事業かどうかにかかわらず、新聞と放送の双方について同じように論じられ、評価されるべき性格のものである。

とりわけ、わが国のように、新聞が、数百万部の読者をもつて、その社会的影響力において免許事業たる放送にいささかも劣らない、特異な発達形態をとげているばあいには、新聞広告の適否について、右の「放送基準」を参照することは、充分理由のあることであろう。

しかるに、本件広告は、前述のとおり、申請人の名誉権を著しく侵害するものであつて、「新聞倫理綱領、第四、公正」前段の趣旨に直接違反し、「新聞広告倫理綱領 三、」の明文に反し、「同細則 (11)」の前段および「サンケイ新聞広告倫理綱領 五、」の前段に該当し、ひいては「関係諸法規に違反」するものとして、「細則」ならびに「サンケイ新聞社広告倫理綱領」にも反しているのである。

さらに、本件広告が一方で申請人に回答を強要しながら他方でその手段を保障していないことは、著しく公正を欠き、実質的に「一方的……な内容・目的をもつたもの」として「細則 (14)」にも該当し、「サンケイ新聞社広告倫理綱領 一、および二、」に反し、とうてい「新聞倫理綱領 第六」にいう「責任観念」のあるものとは認められない。

とりわけ、本件広告が、申請人を引き合いに出しながら自由民主党の優位性を強調していることは「細則 (13)」に直接に違反しており、とうてい許されないものである。

こうして、本件広告が、新聞業界の自律的規範である「新聞倫理綱領」、「新聞広告倫理綱領」「同細則」に違反し、みずから制定した「サンケイ新聞社広告倫理綱領」にすら反していることは、明白な事実である。

また、さきに引用した「放送基準」の趣旨とも著しくかけはなれていることは、これと本件広告とを対照することによつて、容易に看取されるであろう。

重要なことは、本件広告と同旨の広告の掲載を自由民主党から申込まれた「朝日」、「毎日」、「読売」、「東京」の各紙がいずれもこの広告の掲載を断つていることである。これら各紙は、被申請人と同一の「新聞倫理綱領」、「新聞広告倫理綱領」、「同細則」の適用を受けているのである。

昭和四十九年二月八日付の「週刊ポスト誌」(疏甲第十六号証)は、この問題をとりあげ、「いずれも広告原案をめぐつての意見で、二紙(「サンケイ」および「日経」――引用者注)に掲載された広告についてではない」との断り書きをつけたうえで、名社の態度をつぎのように報じている。

「読者はまだ政党広告になじんでいない。そのため朝日新聞の内容と混同されて受取られるとまずいという判断がありました。さらにあの広告は、特定の政党を批難するた内容でしたから」(朝日新聞東京本社広告管理部・本郷美規部長)

「四つの問題があり、意見広告とは解釈しませんでした。第一は、イラストの似顔絵の意味が不明なこと、第二は、二つの綱領を一部だけ引用しているため誤解を招くおそれがある。第三、『社説で表明』という部分が果たして正確かどうか。第四は、あの広告が誹謗、中傷していないとは断定できない、という点です」(毎日新聞・山内貞美広告審査課長)

「最後までひつかかつたのは意見の表明といえるだろうかということです。社内には、これも意見の変型だという見方もありましたが、やはり正面切つた意見がない以上意見広告とはいえないだろうと結論したのです。そこでほぼ全面の修正を求めたのですが、調整つかず時間切れになつてしまいました」(読売新聞広告局・井上仙之介次長)」

「『国民は疑惑と不安の目で見ている』とあるが、果たして国民の全部が見ているといえるか……共産党支持の人だつているわけだから、若干穏当を欠く表現でしよう。新聞のスペースが他を攻撃したり、また泥仕合の場になることは困る。そこで広告倫理綱領に照らして掲載せずと決定したのです」(東京新聞・平野素邦広告局長)

また、被申請人とともに本件広告と同様の内容の広告をいつたんは掲載した「日本経済新聞」も、申請人の正当な抗議に対し、つぎのように回答を寄せている。

「現在の五政党(自由民主党、日本社会党、日本共産党、公明党、民社党)の政党広告に関する認識の度合いは必ずしも同質ではありません。この結果、この時期に本社の広告掲載基準をそのままただちに政党広告に適用した場合、紛争の起こる可能性のあることが今回の事例によつて明瞭となりました。

したがつて本社としては今後五政党の広告に関する認識が変わり近代的な広告活動が可能になるまでは、この種の政党相互間の批判広告の掲載は残念ながら時期尚早であると判断し、掲載は見合わせることにいたします」(疏甲第十七号証)。

こうしてみれば、それぞれニュアンスの差はあれ、本件広告の掲載が「新聞倫理綱領」または「新聞広告倫理綱領」にてらして妥当を欠くことについては、ほぼ一致しているものといえよう。

4 本件広告の違法性

報道・評論・広告の掲載は、基本的には新聞社の公正を求められている言論の自由の範囲に属する。しかし、「私権は公共の福祉に違う」のであり、「権利の行使は信義に従い誠実になすことを要する」のである。また、「権利の濫用は許されない」(以上民法第一条)。さらに「公序良俗に反する行為は許されない」(民法第九〇条)のである。なにが「公共の福祉」でなにが「信義誠実」であるか、またなにが「権利の濫用」であり、「公序良俗」であるかは、具体的には述べられていないが、すくなくとも、憲法の基本的人権尊重の精神、名誉毀損につき特別の救済方法を認めた民法第七二三条の精神などからみて、個人の尊厳ないし人格を侵害するようなやり方での権利の行使が許されないことは明らかであろう。また、市民法全体を貫き、不正競争防止法第一条第五、六号および第一条の二などに顕在化している「公平の原理」が、これらの判断の指標となることについては異論のないところであろう。

とりわけ、一方でその公共性のゆえに国または地方公共団体の手厚い保護を受け、他方で、言論抑圧となることを憂えてなんらの直接的法的規制を受けていない新聞などに関しては、その自律的規範は、たんなる道義的責任を基礎づけるだけでなく、さきにも述べたとおり、慣習法ないし事実たる慣習として法規範性を有し、さらに「公共の福祉」、「信義誠実」、「権利濫用」および「公序良俗」などの適用を通じて法的規範に転化しうるものと解されなければならない。そう解してはじめて、圧倒的な影響力をもつ新聞の誤つた行動から国民の権利を守りうるからである。

詳述したとおり、本件広告は、内容において申請人の名誉権を侵害し、その手法において著しく公正を欠くことによつて、「新聞倫理綱領」等に明白に違反するものであつて、これが、信義則違反、権利の濫用、公序良俗違反等として民法第一条二、三項、同法第九〇条によつて違法とされることは、いまや疑う余地のないところである。そして、権利の濫用等によつて他に損害を与えたものが民法第七〇九条の不法行為責任を負わなければならないことは、現在では確立した不法行為理論となつている。

5 被申請人の弁解に対する反論

被申請人の弁解は成り立たない。

被申請人は、本件広告の掲載が社会問題化してから、サンケイ新聞紙上その他でしきりに自社の立場を弁解している。

その主な趣旨は、第一に、広告の内容は自由民主党が責任を負うべきもので、「意見広告」の紙面を提供したにすぎない被申請人には責任がない、第二に、「意見広告」において他党批判をするのは自由であり、これを不当とする申請人の立場は、外国では一般化している「意見広告」を否定するものだ、というのである。

しかし、この被申請人の弁解は、とうてい成り立ちえないものである。

いつたい多額の広告料をとつて広告を掲載させた新聞社が、その広告によつて生じた問題につき一切責任を負わないという議論はどこから出てくるのであろうか。

なるほど被申請人の「意見広告の全面開放について」との告示(一九七三年八月)ならびにそのなかの「意見広告掲載基準」には「これが責任ある発言である限り……自由に意見を述べる機会を提供する」旨の記載があり、本件広告の上にも同趣旨の「注意書き」がしてある。しかし、このような「注意書き」によつて、「新聞広告倫理綱領」等が明確にしている広告掲載者の責任を免れるとするいかなる根拠も存在しないのである。

被申請人の第二の論拠は、本件広告の問題を一般的な意見広告の可否の問題にすりかえるものである。

たしかに意見広告の開放そのものは賛否両論があり、アメリカなどでは相当程度開放されていることも事実である。しかし、これが結局「金持ちの肩をもつことになる」(フランス、「ル・フイガロ」紙=疏甲第十八号証)のではないかとの批判意見にも無視しえない理由がある。また、欧米諸国とは新聞の発達のしかたに著しい差異をもつわが国のばあい、これらの諸外国の例と同一に論ずることはできないのである。

ともあれ、本件広告について申請人が問題にしているのは、意見広告一般ではなく、また外国の例ではなく、「新聞倫理綱領」等が強度の社会規範として存在しているわが国での、すでに述べてきたような本件広告の内容・手段の違法性・不当性なのである。外国の例でいうなら、意見広告の開放が進んでいる諸外国でも、一般に「他を中傷・攻撃したもの」は意見広告からのぞかれ、他に損害を与えたばあいには新聞社が責任を負うこととしている(朝日新聞・瀬戸丈水氏の研究=「宣伝会議」七三年九月号=疏甲第十九号証による)ことを附言すれば充分であろう。

こうして、被申請人が本件広告を掲載したことによつて申請人に与えた損害を回復すべき義務を免れる、いかなる理由も存在しないのである。

六、各界の意見<省略>

七、保全の必要性

1 交渉の経過

サンケイ新聞が昭和四十八年十二月二日付朝刊に本件広告を掲載して全国に配布するや、申請人を代表して林百郎、津川武一両衆議院議員は十二月五日、被申請人方におもむき、中谷広告局長らに面会し、文書によつて抗議の意思を表明し、(疏甲第二十五号証)あわせてその名誉を回復するについて必要な措置をとることを要求した。すなわち、本件広告は、自由民主党の政見をのべた「意見広告」ではなく、申請人に対する恣意的な攻撃によつてその名誉をきずつけたものであるから、これによつて申請人のこおむつた損害を回復するために、被申請人の責任において、申請人が必要とする反論をサンケイ新聞紙上に掲載することを求めたのである。しかるに、被申請人はこの要求を拒否したので、その後、十二月二十七日にいたるまで六回にわたつて交渉をつづけた。(疏甲第二十六号証)

その間、十二月十五日、被申請人は文書による回答を提示した。(疏甲第二十八号証)。これによれば、広告内容に関する一切の責任は広告出稿者たる自由民主党にあり、申請人において自由民主党の真意を究明する必要があるとするならば、直接に自由民主党と交渉して、その回答を被申請人に提示されたい、もし自由民主党の回答がサンケイ新聞紙面において申請人の反論の掲載を求めるものであつたときは、自由民主党提供の広告として、申請人の反論を掲載する、というにあつた。申請人は、この回答によれば、自由民主党の承認のもとに、その許容する範囲内で申請人の反論が掲載されることとなり、被申請人は広告掲載者としての責任を不当に回避するものであるとして、この申出をことわつた。そこで被申請人はさらに、第二案として、申請人が広告料金を負担して広告としてその反論を掲載する、広告料金については弾力的に考える、という案を提示した。しかし、申請人はもしこの第二案によるならは、自由民主党の「意見広告」に名をかりた他党非難を追認することとなり、一般新聞が金権勢力の道具となつて、金をもつものの無制限な「意見広告」の応酬をみとめ、とめどもない政治的言論の商業化をもたらし、ひいては言論の自由や、議会制民主主義にとつて由々しい事態をまねくであろう、という見地からこの案を拒絶し、公正な解決としては、被申請人がその新聞社としての責任において、申請人の反論を掲載するほかないことをとき、その反論の内容についても節度をもつた、当面の防衛的範囲にとどめる旨の提案をおこなつたが、被申請人のいれるところとはならなかつた。

このようにして、理をつくした交渉にもかかわらず、被申請人は自由民主党提供の広告か、申請人の広告料金負担による広告か、の二案を固執して、社会の「公器」としての責任をかえりみようとはしなかつた。(以上疏甲第二十六号証)

2 損害の継続

申請人は本件広告によつて、その公党としての名誉をきずつけられ、いまだなんらその回復の措置をとりえていない。発行部数おおよそ二〇〇万部と、独自の販売網をもつサンケイ新聞の読者にたいしては、本件広告によつて、まつたく一方的な中傷をうけたまま反論の機会をもちえていないのである。もとより申請人はその機関紙「赤旗」において必要な反論を掲載しているが、サンケイ新聞の読者たる一般公衆にたいしては、その名誉をいちじるしくきずつけられたままでいること、多言を要すまい。

3 名誉回復の緊急性

すでにのべたように、申請人がその第十二回党大会において採択した民主連合政府綱領は、革新三目標にもとづいて、革新諸勢力がさしあたつて一致できる範囲の諸政策を実現すべき連合政府の綱領として、ひろく国民に討議をよびかけたものである。申請人は、きたる本年六月の参議院議員選挙においても、この綱領にいう政府の実現をめざして、ひろく国民に訴えようとしているばかりでなく、現にとりわけ政府綱領提案については、国民の理解と支持をうるべく昼夜をとわず全国にわたつて政治活動を展開している。このときに、申請人がその存立の根拠ともいうべき日本共産党綱領と、その当面のもつとも重要な政策である民主連合政府綱領とについて、まつたく一方的な中傷をうけたのである。その名誉の回復について、本案判決確定にいたるまでの長いあいだ、放置されたままでいることはまことにたえがたいばかりでなく、社会正義の立場からみても到底許すことができない不正である。

4 再発の具体的危険性

本件広告は、自由民主党が、本年六月の参議院議員選挙をめざして立案した長期にわたる宣伝計画にもとづく新聞広告の第一弾であつた。とりあえず朝日、毎日、読売、サンケイ、日経、東京の各社に掲載を申し入れ、さらに次第に地方紙に対しても掲載を拡大していく計画で、その所要経費は二十数億円がみこまれている。さすがにサンケイと日経をのぞく四社は、この非常識な広告の掲載を断る良識をしめしたが、本件広告に類する広告は自由民主党の側から次々と出稿される形勢にあり、自由民主党はその金権にものをいわせて、一般新聞の広告の買占めをはかつている。(疏甲第二十九号証の一、二)

被申請人は、昭和四十八年八月八日に意見広告の「全面開放」という方針をうちだし、意見広告について「不必要と思われる制限項目を一切削除し、論旨、表現が妥当と思われないものでも掲載する」ことにした(疏甲三十号証)。この方針にもとづいてか、本件広告の掲載についても一切の責任を負わないという見解をしめしたばかりでなく、サンケイ新聞紙上に、本件広告に関連して申請人を非難する論説を掲載して、自己のとつた態度の正当性を主張している。

まず、昨年十二月二十九日付主張欄に論説を掲げ、本件広告は「新聞倫理綱領やわが社の意見広告掲載基準に照らし、名誉毀損や侮辱などの法律に牴触するものではない」と断じ、(疏甲第七号証)さらに本年一月一日付紙上には、被申請人の社長鹿内信隆氏みずから「年頭の主張」と題する所見を発表し、本件広告掲載の「正当性」を主張したばかりでなくその後も被申請人の見解を支持する評論の連載をつづけている。(疏甲第三十一号証)

これらを考えあわせると、申請人に対する一方的な中傷にあたる広告の掲載が、ひきつづきおこなわれる具体的な危険があるとみられる。

5 名誉回復の処分

申請の趣旨掲記の処分は、本件広告によつてきずつけられた申請人の名誉を回復するために必要であり、相当であつて、他に代替しうる処分はない。

よつて本件申請におよんだ次第である。

別紙第三  仮処分申請理由補充書

本件仮処分申請書、申請の理由「七、5」を以下のとおり補充する。

一、民法第七二三条は、名誉毀損について、裁判所が、被害者の請求により損害賠償にかえて「名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分」を命ずることができるとしている。

わが国の裁判例では、本条にもとづく名誉毀損の原状回復手段としては、謝罪広告がほとんど唯一の方法とされてきた。しかし、申請人が本件で求めているのは、この伝統的な謝罪広告の方法ではなく、申請人において作成した反論の文章の掲載である。このような方法によることが必要かつ相当であり、また、前記条項にもとづいてこうした方法によることが可能であることを明らかにする。

二、新聞、放送、雑誌などいわゆるマス・コミ的情報手段の誤報または誤解によつて名誉や信用が傷つけられた個人は、マス・コミ的情報手段に対しきわめて弱い立場におかれ、民事、刑事の訴訟手続による救済が必ずしも適切なものとなつていない実情にかんがみ、フランス、ベルギー、イタリア、ドイツなどでは、利害関係者みずから執筆した反駁文の掲載を求める権利、すなわち応答権(反駁権ともいう)を立法によつて認めている(山口俊夫「反駁権――フランス法を中心として――」現代損害賠償法講座2「名誉・プライバシー」所収二六八ページ)。

フランスの一八八一年七月二九日新聞紙法によれば、新聞または定期刊行物に指名または指示された者に対し応答権が認められるとする。権利者は個人であると団体であるとを問わず、原文記事は、論説、報道、広告などその性質を問わない(前掲書二七一、二七二、二七三ページ)。反駁文が、①原文記事と関連のあること、②法令および良俗に反しないこと、③第三者の正当な利益を侵害しないこと、④新聞記者に対する名誉毀損にわたらないこと、⑤権利の放棄がないことなどの制限に反しないかぎり、新聞紙等は、反駁文の受領から三日以内に、無償で、全文を掲載しなければならず、これを拒絶したばあいは、判決による強制、損害賠償、刑事罰を受けることになる(前掲書二七九ないし二八五ページ)。

西ドイツでも、新聞法により、応答権が認められており、定期刊行物の編集者は被害者の請求に応じて、報道された事実に関する訂正文を原文のまま掲載すべき義務ありとされている(三島宗彦「人格権の保護」五二ページ)。

三、わが国現行法には、右のような応答権を明文で定める規定は存在しない。しかし、このことは、わが国の現行法体系のなかで、新聞等により被害を受けた者が反論を掲載する権利をもつことを否定的に評価すべき根拠とはならない。

マス・コミ的情報手段がかつてなく発達したわが国の現状において、その誤報・誤解などから個人の名誉、信用などを保護すべき必要性はこんにちきわめて大きなものとなつている。

わが国の旧新聞紙法(明治四二年)第一七条は、「新聞紙ニ掲載シタル事項ノ錯誤ニ付」き、「其ノ事項ニ関スル本人又ハ直接関係者」が「正誤又ハ正誤書、弁駁書ノ掲載ヲ請求」しうるものとしていた。マス・コミ的情報手段の発達がこんにちほどではなく、また、個人の自由が尊重されない非民主的な明治憲法のもとですら、これだけの権利が保障されていたのである。新聞紙法は、全体として、言論抑圧機能の強い、言論の自由に反するものとして、戦後になつて廃止された。しかし、言論の自由とならんで個人の人格的権利を尊重するわが憲法のもとで、旧新聞紙法上の応答権(正誤権といわれていた)については、その意義を再評価する声が高まつているのも当然である(三島前掲書三〇五ページ以下、山口前掲書二七〇ページ)。

現行法としては、放送法第四条一項が「放送事業者が真実でない事項の放送をしたという理由によつて、その放送により権利の侵害を受けた本人又は直接関係人から、放送のあつた日から二週間以内に請求があつたときは、放送事業者は遅滞なくその放送した事項が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から二日以内に、その放送した放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で訂正又は取消の放送をしなければならない」としているのが、注目される。

新聞倫理綱領「第四」が「非難されたものには弁明の機会を与え……なければならない」と規定しているのは、マス・コミ的情報手段みずからが、被害の回復に最適な手段は反論の機会の提供であることを認めているからにほかならない。

こうしてみれば、新聞等により名誉、信用を害された者に反論の機会を与えるべき実質的理由ないし根拠は充分に存在するものといわなければならない。

四、問題は、民法第七二三条にいう「適当ナル処分」として、被害者の反論掲載という方法を含めさせることができるか、ということである。

これが明文の規定に反しないばかりでなく、「適当ナル処分」とは時代の変化に応じて、名誉回復にもつとも適当な方法をひろく含むものと解するのが相当である。

三島宗彦教授は、このことについて、

「わが裁判所は、名誉回復のための適当な処分としては謝罪広告のみを唯一の手段と考えているようである。また一般にこのことを怪しまないもののごとくである。しかし、諸外国で採用されている手段としては、応答権(注 反駁権)の保障や取消広告の掲示命令などがあり、わが国で普及している謝罪広告の方法はほとんど見られない。それは名誉毀損の救済としては過分であるとか、良心の自由を侵すとか、あるいはまた復讐的な名残りを存するからとかの理由で拒けられている」(前掲書二九八ページ)

としたうえ、

「ここに記した救済手段については、立法によつてこれを明確にすることが望ましい。しかし、現行民法第七〇九条・七二三条の解釈としても不可能ではないように思う」(同書三一〇ページ)と述べている。

マス・コミ的情報手段による人格的侵害に対し被害者に反論の機会を提供することの実質的必要性がありながら、応答権をみとめる明文の規定めないわが法制のもとで、民法第七二三条を通じて実質的に応答権を保障してゆくことは、きわめて適切かつ妥当な方法というべきである。

五、申請人は、本件広告によつて直接名指しで名誉・信用を傷つけられたものである。本件において申請人が掲載を求めている文章は、本件広告に内容に対する反論のみに限られた。節度のあるものであり、法令や公序良俗にも違反せず、第三者の権利などを侵害するものでないこともいうまでもない。

本件広告によつて侵害された申請人の名誉・信用は右文章の掲載以外の方法では回復されえない。政党の名誉・信用は、社会に対する客観的な名誉・信用であり、個人のばあいと異り、精神的・心情的な慰藉によつて回復されない性質のものである。それはむしろ、公党に対する国民の政治的信頼ともいうべきものであつて、それが不当にきずつけられたときは、政党の政見が正しく国民に伝えられることによつてのみ回復されうるのである。したがつて、損害賠償は事件の性質上問題になりえないし、謝罪広告によつても、本件広告によつていつたん芽生えた、申請人に対する読者の疑惑はすこしも解消されることはないのである。

別紙第四 準備書面(一)

一、論評と広告はちがう

(一) 申請人は、「政治的見解の相違」にもとづく「公正な論評」の非を難じたことは、その立党以来五十余年の歴史において、ただのいちどもない。論評にこたえるには論評をもつてすることの大切さを、身をもつてまもりぬいたのは、ほかならぬ申請人自身であつた。

申請人は、昭和四八年十月九日に、第十二回党大会に提案すべき政府綱領提案を発表したのち、同年十一月二十一日、第十二回党大会でこれが採択された前後を通じて、この政府綱領提案について発表された各方面の見解や疑問などについては、つとめて政府綱領提案の理解をひろめるべく努力したことこそあれ、ある見解や疑問をとらえてこれを名誉毀損と断じて抗議し、その回復に必要な方法をもとめたのは、本件広告をおいてほかには、ただのひとつもない。乙十三号証以下、乙二六号証にいたる各新聞・雑誌などについて、申請人は必要な反論をおこなうことはあつても、決してこれらを名誉毀損などと主張したことはない。乙十五号証、サンケイ紙の昭和四十八年十二月十二日付社説「日共綱領、徴笑連合の後が問題」についても同様である。乙十九号証の一、及び二、自由新報の、かなりどぎつい表現をもちいた記事についてさえもまた同様である。

申請人が問題にしていることは、本件広告それ自体の内容と、それが広告という方法をもつてサンケイ新聞に掲載されたという一事にある。被申請人の準備書面(一)、(二)は、このことに目をふさぎ、本件広告を政治評論一般のなかにながしこむことによつて、本件広告のもつきわだつた特異性を抹消しようとする点に、その最大の特色がある。

(二) 政府綱領提案と、党綱領とが全体として深い関連をもちながらそれのもつ性格の相違に応じて、おのずから同じでないことは、すでにくわしくのべたとおりである。この両者が同じでないことを矛盾とみるかどうかは「政治的見解の相違」ではなくして、事実の認識の問題である。しかし、事実の認識もまた誤まることもあるし、本件広告のように意図して歪曲することもある。

それらがたとえあやまつたものであれ政治的評論としてふさわしい方法でおこなわれるならば、言論の応酬を通じて次第にその真実が国民につたわり、どちらが正しいかは国民の政治的支持によつて、やがてはおのずから一定の結論に到達するであろう。自由民主党の機関紙、自由新報がいかに申請人に対して的はずれの「政治評論」を掲載しても、申請人はそれにふさわしい反論をひろく国民につたえることによつて、国民の政治的判断に訴えればよいのである。たとえば乙二二号証、昭和四九年二月九日付公明新聞は「日本共産党の公開質問状への回答」と題する長文の論文を掲載しているが、これらの政党機関紙相互の間の論争は、さかんになることほどむしろ望ましい。

しかし、他党を名指しで攻撃中傷することのみを専一の目的とする広告のかたちで、サンケイ紙上に掲載された場合には、問題は全く別である。

(三) 広告と記事としての論評はちがう。意見広告といえども、記事としての論評とはまつたく別のものである。広告は、一定の広告目的のために、すべてを広告効果の高いことにしぼり、抽象や誇張を加えながら、これに写真や図版などをいれて、つくりあげたものである。本件広告にしてからが、自民党は「日本共産党の民主連合政府批判」というテーマだけをだして広告代理店五社に企画を競争させて、そのうち一社のものが入選した。それが本件広告の原型であつた。自由民主党は多額の予算を用意してこれを朝日、毎日、読売、東京、サンケイ、日経の各社にもちこみ、一挙に数千万人の読者に対して申請人に対する中傷広告をよませようとした。それはそのなりたちからして政治論評ではなく、中傷効果をねらつた広告そのものであつた。論評であれば、読者はその行論にしたがつて論理をよみすすめ、自分なりの意見をもつことができる。ところが、広告はもともと広告会社がつくりあげた、宣伝目的一本にしぼられたものであるから、読者のうける認識はより視覚的であり、より印象的である。一見した印象的認識によつて広告の勝負はきまる。本件広告はまたそのもつとも悪質な典例である。

この場合、イラストのはたす役割はとくに絶妙でさえある。こうして、大きな活字と、イラストと、本文の構成からつくりだされた印象的効果、これが広告一般にも通ずる本件広告の特徴であつて、それのもたらす申請人に対する中傷こそ、本件広告の唯一のねらいであつた。

さらに、記事としての論評であれば、新聞社はその責任において誤報をあらためることができるが、広告の内容については新聞社はあやまちをただすことは実際上むつかしい。

このように、記事としての論評と、広告とはまつたくちがうのである。そこで、とくに新聞広告倫理綱領はきびしい自律を課したのであつた。

本件広告を論評一般に解消する議論のあまやまりは明白である。

二、本件広告は公正ではない

本件申請の当否を考えるにあたつては、本件広告それ自体から出発しなければならない。かさねていうならば、本件広告はまず全七段の大きさで人目をひくようになつている。それは紙面の下部、約半分をしめる。文字としては「前略、日本共産党殿」、「はつきりさせてください」という右端の大きな文字と、「自由社会を守る自由民主党」という左端の大きな文字とが人目をひき、中間の右よりに、支離滅裂な顔をしたイラストがおさまつている。その左に「多くの国民は不安の目で見ています」という見出しではじまる本文と、対照表がついている。その「不安」のなかみとは、政府綱領提案と党綱領との間に「矛盾」があり、政府綱領提案は「革命への足がかり」、「たんなる踏み台」にすぎないのではないか、という「不安」であり、申請人にはまやかしやごまかしがあるから、それらを「はつきりさせてください」というのである。そして、イラストは、本件広告がつくりあげた「矛盾」のシンボルとして、広告全体のねらいを象徴するしくみになつている。左右不揃いの顔は、「矛盾」を表現しているのである。被申請人準備書面(二)は、このイラストについて「『はつきりさせてください』とした本文をいつそうわかりやすくするために捜入されたものにすぎなく、嘲笑など表わしているものではないことはいうまでもないと弁解しているが、このイラストが悪意ある嘲笑そのものであることは、一見して明らかであり、弁解は趣旨不分明で成り立つ余地のないものである。その趣意はいつそうに明らかではない。これらが全体として読者に与える広告効果は、もはや明らかに「論評の内容・表現が公正であること(公正さ)」のわくを大きくはみ出してしまつている。申請人がこれを中傷という所以である。

さらに、新聞広告によるこのような攻撃は、被害者の側において「はつきりさせてください」とせまられながら、これに応答するには莫大な経費を負担することを余儀なくされ、被害者において「泣き寝入り」を強要されるという意味で、その方法において「公正な論評」とはとうていいえないこと、すでに詳述したとおりである。

三、公正の基準は倫理綱領である。

(一) 被申請人は「『公正な論評』の法理」を援用する。新聞広告についてなにが公正であるか、というならば、その基準として、なによりも新聞倫理綱領、新聞広告倫理綱領およびその細則がとりあげられなければならない。

被申請人は、さきに答弁書において、「日本新聞協会が前記綱領あるいは細則を制定したのは加盟各新聞社がこれに従うよう求めたものではなく、綱領は倫理的基準として、細則は実務上の手引きとしてこれを制定したものである」とこたえた。被申請人は日本新聞協会に加盟しながら、倫理綱領に従うよう求められたことはない、というが如くである。ここに、被申請人の、倫理綱領に対する無視または軽視の態度が告白されている。

各新聞社は、昭和二十一年七月二十三日に、「親しくあい集まつて日本新聞協会を設立し、その指導精神として『新聞倫理綱領」を定め、これを実践するために誠意をもつて努力することを誓つた」のである。(新聞倫理綱領前文)。日本新聞協会定款はその会員資格について、「この法人の会員は、この法人の制定する新聞倫理綱領を守ることを約束する新聞、通信および放送事業を行なう者で、別に定める定款施行細則所定の入会手続を経て、理事会が承認した者とする」(七条)と定め、施行細則三条、四条は、入会申込の諾否は、理事会によつて、その申込者の新聞の「紙面内容が新聞倫理綱領に合致し品位を保つていること」などについて調査されたのちにおこなわれることになつている。被申請人もまたひとたびは「新聞倫理綱領を守ることを約束」したはずである。

いまにいたつて、日本新聞協会が「これに従うよう」求めたものではない、というのは理解しがたい。

本件広告が新聞倫理綱領、新聞広告倫理綱領などに違反することについては、すでに申請書にくわしくふれておいたのであるが、新聞倫理綱領が、「本綱領を貫く精神」として、自由・責任・気品などとならんで、公正を挙げていることはとくに注目されてよい。そして新聞広告倫理綱領は「新聞広告は、他の名誉を傷つけ、あるいは不快な印象を与えるものであつてはならない」、「新聞広告は虚偽、誇大な表現により、読者に不利益を与えるものであつてはならない」と定めている。本件広告が「虚偽、誇大な表現」によつて、「他の名誉を傷つけ」たものであること、広告自体に徹して疑いをいれぬ。

被申請人みずからが、これらの倫理綱領を補充して定めた「サンケイ新聞広告倫理綱領」にも違反し、その「意見広告掲載運用規則」(乙一号証)が「名誉毀損、侮辱、信用毀損、業務妨害など」にあたるものは掲載しない、と定めたことにももとること、もはや多言を要すまい。

(二) 新聞紙面について、それが「公正な論評」であるかいなかをきめるよりどころは、まず新聞倫理綱領などにあること、右にのべたとおりであるが、これは新聞に関する限り、公正であることの判断基準はすでにそのながい歴史のなかで客観化されるにいたつていることをしめしている。その意味で、被申請人が「論評の公正さは必ずしも常に客観的に公正であることは必要とされない。主観的であると信じてなされればよいとされている」とのべているのは、こと新聞に関する限りまつたく正しくない。被申請人の援用する東京地裁昭和四七年七月二日判決は、女子プロレス業界の事情を報じた新聞報道と、女子プロレス業者との間の名誉毀損に関する訴訟であるが、この判決が「論評が公正であることを要するのは勿論であるが、『公正』といいうるためには必ずしも常に客観的な公正さであることを要請されない」として、そのつぎに「(例えば芸術的作品の評価については何が客観的に公正であるか決定することができないであろう)」とのべていることは、判決の趣旨を正しく理解するうえで大切である。つまり、この判決が論評の公正さについて、「必ずしも常に客観的な公正さであることを要請されない」としたのは、芸術的作品の評価などを念頭においているのであつて、本件広告についてこれを援用するのは、まつたくおかどちがいである。

新聞紙面について、それが記事であれ、広告であれ、論評の公正さに関する最底の基準は倫理綱領などに客観化されていることに準拠すべきものである。

(三) 被申請人は、政府綱領提案と党綱領との相違について、本件広告は「客観的に矛盾であると断定しているのではなく、広告提供者の自己の見解として『矛盾している、と私たちは考えます』といつているにすぎない」とし、結局、この部分は「疑問提示という形の批判的見解と受けとめざるを得ない」という。

広告提供者として自由民主党がこのようなつつましやかな「疑問提示という形の批判的見解」のもち主でないことは乙十九号証の一、二の自由新報を一べつするだけで明瞭である。自由新報は、政府綱領提案について「欺瞞と独善に満ちた作文」、「独裁ひたかくし、民主連合政府構想」などという見出しをつけて報じているのである。

本件広告がいかにも「疑問提示という形」をとつたのは、ひとえに広告効果をあげたいための考慮によるもので、それが「多くの国民は不安の目で見ています」という見出しとむすびつき、さらに「前略 日本共産党殿、はつきりさせてください」というキャッチフレーズとつらなることによつて、本件広告のモチーフをつくり出しているのである。つまり、「疑問提示という形」をとつたのは、本件広告のねらいを最大限に発揮するための工夫であつて、これは論評の不公正をしめすものでこそあれ、広告としての節度や公正さをしめすものではありえない。<以下省略>

別紙第五 申請人の準備書面(二)<省略>

別紙第六 答弁書<省略>

別紙第七 被申請人の準備書面(一)

<省略>

別紙第八 被申請人の準備書面(二)

第一、本件意見広告の掲載に関する事実の概要、経緯

一、被申請人の概要

被申請人は、日刊紙「サンケイ」、「サンケイスポーツ」その他の新聞の発行、および出版等を目的とし、昭和三〇年二月一五日設立され、申請書肩書地に本店をおき、東京、大阪の両本社の外、全国各地に四九の総局もしくは支局と一五七の通信部を設置し、海外に一一の支局を設け、四、〇一〇名の従業員を擁する資本金二〇億円の株式会社である。

二、意見広告掲載を開放した経緯

意見広告とは、政治、文化、社会その他の諸問題に関する主義、主張、意見、見解、論評等を内容とする広告を指称するものといいうるが、未だ明確な定義は見当らない。とはいえ、諸先進自由主義国においては、すでに古くから意見広告は社会的に定着していたし、わが国においても大正、昭和にかけてかなりの政治意見広告がすでに存在していた。しかし戦時中および戦争直後の特殊な言論情勢の下においては、これが新聞紙上に掲載される門は事実上閉されていた。例えば朝日新聞社は、昭和一三年の「広告制限事項」の中で「時事論議の広告は掲載せず」、「宣言、決議、声明、釈明等の広告は最も注意を要す」と規定していたし、占領下の昭和二〇年一二月作成の同社「広告掲載制限事項」においても「政治、思想、社会問題或は国民運動等に関し、主義主張を論述したもの」は不掲載とされていた。その後、言論の自由が実質上も回復するに至つたが、何故か意見広告に紙面を開放することに新聞は消極的であつた。それは新聞社が編集方針にあまりにもとらわれすぎたことに原因があつたと思われる。しかしかかる姿勢は、後述するように一方において巨大化し寡占化した新聞社の特定の編集方針に対する不満の存在と、他方において意見発表の手段が制限されていることに対する不満の存在とが横溢する実情からみて、また新聞の自由の見地からして、早晩改革されざるを得ない趨勢にあつたのである。

このようなとき新聞社に勇断を促したのは、ベ平連がカンパ資金により、一九六五年一一月一六日付ニューヨーク・タイムズ紙上に掲載したベトナム反戦の政治広告とその大々的反響であつた。

その影響は、翌一九六六年(昭和四一年)に日本新聞協会が手引として作成した新聞広告倫理綱領細則にも現われた。すなわち、同細則では、一応従来の線に沿つて掲載を拒否または保留する項目の一つとして「政治・宗教・社会問題などの主義・主張の広告で、新聞社の編集方針などについて、読者に誤解を与えるおそれがあるもの」を掲げながらも、その注記の注七において「一律的にこの種広告を禁止するのではなく、弾力的に運用できる余地を残した。……判断を各新聞社にゆだねたものである。」(疎乙第三三号証)である。

その後、ベ平連がワシントン・ポストにも同様の広告を掲載した(一九六七年四月三日)頃からは、わが国においても意見広告掲載の解禁、開放は今日的問題として具体化を図るべき段階となるに至つた。

昭和四三年六月、日本経済新聞が広告の掲載基準を改定し、初めて「意見広告」という表現を用いて「社是に抵触しない限り」意見広告を掲載することを明らかにした。翌四四年一月には読売新聞社が意見広告掲載基準を設定し、原則として掲載するとの方針を打出した。同年一〇月、毎日新聞社も社論に反せず読者の啓蒙に資する解説的なものという条件の下に掲載することに踏みきつた。なお、朝日新聞社も昭和四八年三月に意見広告を開放したのである。

被申請人についていえば、昭和三六年に設定した「産経広告掲載基準」においては、設定当時の時代的風潮が反映し「編集方針と相いれざる政治的な主張および批判並びに宗教的主張を論じたもの」は掲載しないこととされていたが、意見広告開放の気運に応じ、昭和四五年一〇月にまず宗教広告掲載基準を制定し、わが国でははじめての本格的な宗教広告の開放を行なつた。その後昭和四八年八月、意見広告掲載基準および運用規則(疏乙第一号証)を制定(これに伴い、サンケイ新聞広告掲載基準の一部と宗教広告掲載基準の全文が削除された)するとともに、本社所定の意見広告クレジットを冠した広告については、臨時物広告料金にくらべ割安な料金(営業物料金を適用)とすることを定めた。またこれにあわせて掲載基準委員会を設置した。

このようにして被申請人は、後述の意見広告の意義に照らし、新聞の自由の原則に立ち、新聞社としての基本的方針に反する意見広告についても、これを全面的に開放することを他紙にさきがけて決定し、これを公表(疏甲第三〇号証)して実施に踏みきつたのである。

三、本件意見広告掲載の経緯

広告局に対し掲載のあつた本件意見広告の原案文について、被申請人は、これを検討するため昭和四八年一一月二八日、第一回の掲載基準委員会を開催した。同委員会は、サンケイ新聞社意見広告掲載基準ならびに同運用規則に照らし、右原案を詳細に検討した結果、右原案文には一部不適当と思われる個所があり、そのままで掲載することは問題があると認められたので、その修正を求めることとし、また広告主たる自民党が広告の掲載に当たつて「意見広告」表示と注意書きを冠しないで貰いたいと要望したことについては、これを冠することは掲載の絶対的条件であることを再確認し、これらの条件が充足されることを前提として、記載された事実関係や意見内容等について厳正に調査、確認するとの結論に達した。そこで翌二九日、右結論を広告主に説明したところ、広告主もこれを了承した。

同月三〇日、広告主より本件広告の修正案が提示された。そこで被申請人は、念のためにこれを掲載することの法的可否について法律顧問に意見を求めたところ、結論として、右修正案文については、これを掲載することは法律上許容されないものではない旨の見解が示された。

同日、第二回の掲載基準委員会を開催し、改めて修正案文について前記基準ならびに運用規則に則り、慎重に検討を加えた。その結果、右修正案文は、事実関係の表示も特段の問題点はなく、またその性質は、公党が公党の政策を批判した政治意見広告であり、高度の公共性、公益性を有し、意見の内容も、すでに多くの同趣旨の批判がなされていることでもあり、前記掲載基準ならびに運用規則に抵触する点は存在しないとの判断された。また「意見広告」の表示と注意書きによつて、社の方針と広告との関係は明示され、読者に誤解を与えるおそれもないので、これを冠して掲載することにより、もはや問題となる点はないと結論された。

そこで広告局においては右委員会の結論に基づき、一二月二日付の紙面にこれを掲載することを決定したのである。

その後広告局においては、さらに事務上の検討を続け、掲載に必要な手続を進め掲載に至つたのである。

以上のように、本件意見広告を掲載するに当たつては、被申請人は、サンケイ新聞社意見広告掲載基準、同運用規則に則り、細心の注意をはらつて万全を期したのである。

四、申請人との交渉の経過

(一) 本件広告の掲載をめぐり、申請人を代表して林百郎、津川武一、津金佑近各代議士他が来社し、被申請人側代表の藤村邦苗編集局次長、佐藤敏道広告局次長他と折衝した。

折衝は右広告掲載前の昭和四八年一一月二七日および同掲載後は一二月五日から同月二五日の間に五回、計六回にわたり行なつた。

(二) 申請人の主張は要約すると①自由民主党が意見広告でとりあげた問題は、すべて申請人が十二回党大会などで解明している。それを無視して一方的に攻撃するのは申請人の名誉を傷つけるものである。自由民主党が政策、理念闘争を挑むなら機関紙上でやればよい。一般紙の紙面を「広告」という名目で買い、他党を批判するのは、金権勢力による新聞の私物化である。②被申請人がこうした攻撃文書を「広告」という形式で掲載したのは、新聞の使命たる公共性をゆがめ、新聞倫理綱領に反する。だから被申請人は自由民主党に対する申請人の反論を無料で全文掲載せよ。③それができないなら、申請人は、被申請人と、その系列の新聞、雑誌の取材をこんご拒否する。というものである。

(三) 被申請人は、申請人の右主張に対し「意見広告は、憲法第二一条(表現、結社の自由)の精神に則り開放したもので、新聞倫理綱領に基づく意見広告掲載基準と同運用規則を設けており、これに合致すれば、たとえ、編集方針に反するものであつても掲載するのが原則である。このため必ず意見広告である旨の社告を付し、料金も従来のこの種の広告料金のほぼ半額として、責任ある自由な意見に門戸を開いている。本件広告については、公党による政治的意見であり、責任ある発言である。新聞倫理綱領にも反しない。」など基本的立場をるる説明し、具体的な次の三案を文書および口頭で提示した。

①申請人が責任ある機関で決定した反論を、書記局長などが公式の記者会見で発表するならば、記事として編集方針にしたがい報道する。

② 意見広告の内容などに関する責任は、広告出稿者側(自由民主党)にあるので、本件広告について自由民主党が申請人の反論を要求しているかどうかの当否を被申請人が判断する義務を負わない。したがつて申請人が直接、自由民主党の真意を確かめ、反論を求めていることを明らかにするならば、被申請人は申請人には無料で広告スペースを提供する。

③ 申請人が意見広告として反論を出稿するならば、料金については弾力的な運用を考慮する。

(四) しかし被申請人の条理をつくした提案ならびに説明を申請人はいずれも拒否し、終始、被申請人の非を鳴らして「反論を無料で掲載せよ」と要求、前後六回におよんだ折衝は不一致に終つた。そして最終回となつた一二月二五日には、申請人は一方的に「被申請人およびその系列の新聞、雑誌等の一切の取材をこんご拒否する」と通告した。

これに対し、被申請人は「申請人の態度は“開かれた政党”を表明し、つねづね報道の自由、表現の自由を叫び、あらゆる場においてそれを守ると公表している姿勢と矛盾し、公党のとるべき態度とは思えない。」と、この措置の撤回を強く要望したが、申請人が聞き入れるところとならなかつたのである。

第二 被保全権利の不存在

一、不法行為としての名誉毀損の不成立

不法行為としての名誉毀損の成立要件は、第一に自己の故意または過失による行為によること(故意、過失)、第二に他人の社会的評価を違法に低下せしめること(加害の違法性)である。本件においては被害を受けたと主張する者(以下、被害者という)が、公の政党であり、その者に対する批判的意見の陳述が第二の要件に該当するかどうかが最も重要な論点である。まず、この点について考察したのち、第一の故意、過失の要件にふれる。

二、加害の違法性の不存在――本件意見広告掲載は、申請人の社会的評価を違法に低下せしめたであろうか。

(一)まず、申請人の社会的評価を違法に低下せしめたか(違法性)を判断するためには、本件意見広告掲載(名誉毀損行為の態様)と、それによつて毀損されたとする申請人の社会的評価(被侵害利益の種類・性質)との両面から検討していくことが必要である(加藤一郎・法律学全集・不法行為一〇六頁)。すなわち侵害行為の態様と被侵害利益の種類・性質の関係が問題となる。

(二)本件被侵害利益の種類・性質

本件における被侵害利益は、申請人の社会的評価すなわち名誉である。しかし同じく名誉であつても、全くの私人の名誉と公党の政治的名誉とでは、侵害行為の態様にもよるが、法律上の保護のあり方は異つてくるというべきである。なぜなら公務員、公選による公務員の候補者、政党も名誉を保護されるのは当然であるが、一方これらの者は常に国民の監視を甘受せねばならぬ立場にあり、真実である限り報道・批判にはたえなければならないからである。本件におけるごとく、政党に対して批判的意見の陳述がなされ、その結果その政党の政治的な社会的評価が低下したとしても、それが真実に基づく公正な批判的意見陳述である限り、その低下は法的救済に値しないものであるといわなければならない。そうでなければ、のちに述べるとおり、国民の「知る自由」、「知る権利」を否定することになるおそれがあるからである。

したがつて、本件における違法性の判断は、本件意見広告掲載、すなわち政党に対する批判が真実に基づく公正な批判的意見の陳述であるかどうかにかかつているのである。

(三) 侵害行為の態様――本件毀損行為と違法性

1 「公正な論評」の法理

(1) 「公正な論評」の法理については「公共の利害に関する事項または一般公衆の関心事であるような事項については、なんびとといえども論評の自由を有し、それが公的活動とは無関係な私生活曝露や人身攻撃にわたらず、かつ論評が公正であるかぎりは、いかにその用語や表現が激越・辛辣であろうとも、またその結果として、被論評者が社会から受ける評価が低下することがあつても、論評者は名誉毀損の責任を問われることはないとする法理である。」(幾代通「アメリカ法における名誉毀損とFair Com-ment」末延還暦記念論文集二六頁)と定義される。英米法においては、「フエアコメント」の法理としてすでに確立されている。

(2) この法理は、わが国においても学説が一般に認めているところである(山川洋一郎・「公正な論評」・現代損害賠償法講座2・一六五頁・注釈民法(19)債権(10)一九二頁、五十嵐=田宮・名誉プライバシー一一六頁、三島宗彦・人格権の保護二七七頁、団藤・刑法各論二九二頁)。また判例においても東京地裁昭和四七年七月二日判決(後掲)において、右法理を真正面からとりあげている。すなわち問題とされた記事が原告の名誉を毀損するものと認めながら「しかし右事実から直ちに被告が原告に対し、名誉毀損の責任を負うべきであると速断することはできない。何故なら、何人も自己の名誉、すなわちその社会的評価を不当に毀損されるべきではなく、不当な侵害から保護されるべきは勿論であるが、それと共に、何人も言論の自由を有し、自己の判断するところを自由に発表する権利を保障されなければならないからである。名誉毀損の責任を負うべきか否かは、この矛盾、衝突し易い二つの要請の調和のうえに求められなければならない。そこで、この両者の関係についてさらに検討すると、言論・出版の自由は民主主義社会の基本的な前提の一つであり、その中には『論評の自由』すなわち、何人も一定の事実に基づいて自己の評価を発表する権利を包含している。したがつて論評記事によつて論評の対象となつた者が社会から受ける評価を低下させる場合でも、『論評の自由』との関連において名誉毀損の責任を問われない場合があるというべきである。そして、その要件を考えるに当つては、論評が公正であることを要するのは勿論であるが、『公正』といいうるためには必ずしも常に客観的な公正さであることを要請されない(例えば芸術的作品の評価については何が客観的に公正であるか決定することができないであろう。)と同時に、論評の前提となる事実についても、それが全くの虚偽であつてはならないが、だからといつてすべてにわたつて客観的に真実であることまでも要求すべきでない。そうでなければ『論評の自由』を認めないに等しい結果を招来する虞れがある。

他方『論評の自由』は、公共の利害或いは一般公衆の関心事である事項について認められるのであつて、私生活の曝露や人身攻撃を許容するものではない。ことに論評が新聞記事によつてなされる場合、読者啓蒙、社会正義実現などの使命感の行き過ぎが、人身攻撃による個人の名誉侵害を起しかねない。それが強大なマスコミニユケーションの前には殆ど無力に等しい個人を社会的に抹殺しかねないことが留意されるべきである。」とした上、新聞の論評記事によつてなされた名誉毀損による不法行為の成否の基準として、

①論評の前提をなす事実が、その主要な部分について真実であるか、少くとも真実であると信ずるにつき相当の理由があること。

②その目的が、公的活動とは無関係な単なる人身攻撃にあるのではなく、それが公益に関係づけられていること。

③論評の対象が、公共の利害に関するか、または一般公衆の関心事であること。

の三要素を揚げ、当該事案はこれを充すものとして原告の請求を棄却したのである(東京地裁昭和四七年七月二日判決・謝罪広告請求事件・判例時報六八八号七九頁)。

その他「公正な論評」の法理を傍論としてであるが、これを認めた判例として、昭和三一・一一・五日東京地判・読売新聞社事件(下民集七・一一・三一〇八)、昭和三三・六・七・東京地判・毎日新聞社事件(下民集九・六・九九〇)等がある。

(3) このように「公正な論評」の法理は、わが国においても学説、判例においてすでに定着しつつある法理論といつてよい。

2 本件意見広告掲載行為は、公正な論評、批判であるから名誉毀損行為とならない。

右に述べたごとく「公正の論評」の法理が適用される要件は、次のとおりである。

(イ)論評の前提をなす事実が、その主要部分について真実であるか、少くとも真実であると信ずるにつき、相当の理由があること(事実の真実性)、(ロ)その目的が公的活動とは無関係な単なる人身攻撃にあるのではなく、公益に関係づけられていること(目的の公益性)。(ハ)論評の対象が公共の利害に関するものであること(対象の公共性)。(ニ)論評の内容、表現が公正であること(公正さ)である。(東京地裁前掲判決)

以下、本件意見広告について、この要件を具体的に順次検討する。

3 事実の真実性および内容、表現の公正さ

(1) 本件意見広告の内容の真実性

本件意見広告は(疏甲第一号証)の内容は、次の四つの部分から構成されている。第一は民主連合政府綱領と日本共産党綱領において示されている政策のうち、国会、自衛隊、安保、(企業の)国有化、天皇制の最も基本的な事項について、両者を要約し、対照した表の部分(以下第一の部分という)、第二は「多くの国民は、不安の目で見ています。」との見出しで、意見広告提供者の見解を述べた部分(以下第二の部分という)、第三は申請人に対して「はつきりさせてください」とした見出しの部分(以下第三の部分という)、第四はイラストの部分である。

本件意見広告は、第一の部分の事実を前提として第二、第三の部分で意見広告提供者の申請人の基本的政策に対する疑問提示という形での批判的意見の陳述をなしているのである。したがつて、論評・批判の前提となる事実は、第一の「表」の部分であるが、この部分が真実に反しないことに関しては、一部分を除いては争いがない。争いのある部分は、国有化の項目において申請人が「党綱領が『必要と条件におうじて一定の独占企業の国有化』を提起するとのべている部分から、故意に『必要と条件におうじて』という部分を削除して引用し、一律的な国有化を提案しているようにえがきだしている。」と主張しているところである。確かに党綱領には、申請人の主張するごとく「必要と条件に応じて」という語句はあるが、本件意見広告には「……一定の独占企業の国有化」としているのであつて「一定の」まで省略して「独占企業の国有化」としていないこと、「重要産業……の」というところから引用しているのを併せ読むと、申請人の主張のごとく「一律的な国有化を提案しているようにえがきだしている。」ということにはならないというべきである。したがつて、本件意見広告においては、論評の前提となる事実に虚偽はない。

(2) 論評の公正さ

次に問題となるのは、第二、第三の部分に述べてある論評の公正さである。論評の公正さは必ずしも常に客観的な公正さであることは必要とされない。主観的に正当であると信じてなされればよいとされている(東京地裁前掲判決。山川洋一郎・「公正な論評」・現代損害賠償法講座2・一六六頁)。民主連合政府綱領と、日本共産党綱領とが相違していることは申請人も認めている。この相違を文字通り、相違とみるか矛盾とみるかは、各政党等の独自の立場から生ずる政治的見解の相違であるとみるべきである。いずれにしても、このような相異つた見解を知ることは、それが主観的なものであつたとしても、国民にとつて有用である。

本件意見広告においては、右相違が客観的に矛盾であると断定しているのでなく、広告提供者の自己の見解として「矛盾している、と私たちは考えます。」といつているにすぎない。そして矛盾しているならば、連合政府案はプロレタリア独裁(執権)へ移行するための、たんなる踏み台革命への足がかりにすぎないのではないか、という疑問の提示をしている。したがつて、この見解の部分は、一般読者の普通の注意をもつた読み方からすれば、疑問提示という形の批判的見解と受けとめざるを得ない。この論評の内容が、公正さを欠いているかどうかについては、昭和四八年一〇月一六日付朝日新聞の社説をみれば明らかとなろう。それには次のように述べている。(疏乙第一三号証)

「だが、こうした共産党の弾力的な提案(民主連合政府綱領を指す)にも、さまざまな疑問点が提起されている。三年前の党大会で同党が打ち出した「民主連合政府」の性格は、この案ではつきり規定されたものの、その「政府」と同党綱領がかかげる『反帝・反独占の民主主義革命』との関係が必ずしも明らかでないからである。これは共産党がいう『当面の革新統一戦線』の相違が一般にわかりにくく、種々に解釈されているためである」。「さらに提案の呼びかけが社会、公明党に言及しながら民社党を除外し、広く国民の討議を呼びかけていることも、各野党の反応を複雑にしている。共産党はこの提案を武器に政党よりもその下部に食い込みをはかるのではないか、と疑うわけである。これは、現段階における共産党に対する他党の不信感の表われであろう。だが、そこには、急激に変容した共産党の姿に、戸惑いを感じている国民の声もふくまれていると思う」。「共産党が野党の結集を望むのであれば、まず他党の疑念をとく努力が必要であることを自覚せねばなるまい」。この朝日新聞の論評と類似した趣旨の論評は、他の新聞等でもなされている(例えば疏乙第一四ないし一七号証)。このような論評からみても、国民にとつて解決済みの問題でないことは明らかである。

これらの論評が公正な論評でないとするのであればともかく、これらが公正な論評として社会的な評価をうけている以上、本件意見広告の論評がその内容において公正さを欠いているとは到底考えられない。また、表現においても、著しい誇張や侮辱的言辞もなく、中傷、ひぼうにわたる表現が全くないことは明らかである。第四のイラストの部分は「はつきりさせてください。」とした本文をいつそうわかりやすくするために挿入されたものにすぎなく、嘲笑などを表わしているものでないことはいうまでもない。

すでに、申請人も、この種の政治的意見広告を当然のこととして、他党を強烈に批判、論評した例がある。すなわち「アメリカと財界のいいなりになる自民党の政治」(疏乙第五号証、昭和四四年一二月二一日付毎日新聞最下段)、ゲバ学生について「……自民党や警察は表面とりしまるようなかつこうをしながら、うらで泳がせているのですね。その証拠ならいくらもありますよ。」(疏乙第六号証、昭和四四年一二月二四日付読売新聞最下段)等である。

(3) しかるに、申請人は、第二の「多くの国民は、不安の目でみています。」という見出しからはじまる広告提供者の見解の中から「矛盾している。」(事実は「矛盾していると思います。」となつている)とのべている部分をことさらとり出し、これが存在しないものを存在するという事実の歪曲だと決めつけている。しかしすでに述べたごとく、党綱領と政府綱領の間に矛盾があるかないかは、見解の相違の問題であつて、事実の真偽の問題ではない。

4 目的の公益性、対象の公共性

本件意見広告の目的は、公党の最も基本的政策に関する批判を内容としており、一国の政治という公益に関係づけられていることは明らかであり、その批判の対象も公党の綱領という高度の政治的なものであるから、これが公共の利害に関するとするのは多言を要しない。

5 以上述べたごとく、本件意見広告は真実に基づく、公正な論評・批判であつて、その違法性は全くなく、他人の社会的評価を違法に低下せしめた事実は存在しない。

申請人は自由民主党が疑問視して、被申請人に、はつきりさせてくださいと述べたことを中傷であり、ひぼうであるとしているが、申請人の機関誌昭和四八年一一月二二日付赤旗には、次のような一文さえある。「日本共産党は『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』を発表するにあたつて、全党の討議はもちろん、すべての革新勢力、国勢革新に関心をもつすべての国民がこの『提案』を討議され、意見をよせられることを心から歓迎するものである」。

三、故意、過失が成立する要件は存しない。

本件において、故意、過失が成立するためには、被申請人が本件意見広告を掲載するに当たつて、

(イ)これを掲載すれば、申請人の社会的評価が低下することを知つていたか、または知るべきであつたのに知らなかつたこと。(ロ)本件意見広告第一の「表」の部分に、虚偽があることと知つていたか、または知るべきであつたのに知らなかつたこと。(ハ)本件意見広告の内容、表現が著しく公正を欠くことを知つていたか、または知るべきであつたのに、知らなかつたことの要件が必要である。これらは前第二項で述べたところにより明らかなごとく、事実に虚偽はなく、論評の公正さにも欠けていないのであるから(ロ)、(ハ)の要件は成立しない。

また、被申請人は本件意見広告掲載にあたり、第一項「三」において述べたごとく被申請人の意見広告掲載基準(意見広告は掲載する。意見広告掲載の趣旨は、本紙編集の姿勢、立場とは関係なく、すべての個人、団体のどのような主張、意見についても、これが責任ある発言である限り、広告欄を開放して自由に意見をのべる機会を提供するものである。)(疏乙第一号証・広告掲載基準三九頁)および意見広告掲載運用規則(1、意見広告は、次の要項に抵触するものは掲載しない。

イ 広告主の名称、責任者名、住所、目的など実体があいまいであり、その意見に対し、署名者が責任を持ち得ないと判断されるもの。

ロ 内容が事実に反するもの。

ハ 関係諸法規に抵触するもの。

ニ 破壊、暴力を肯定したり、あるいは人心を惑わすおそれのあるもの。

ホ 詐欺、わいせつ、俗悪、人種的・宗教的な憎しみなどの内容、表現を用いたもの。

ヘ その他、本社が掲載不適当と認めるもの。

疏乙第一号証・広告掲載基準四〇頁)に則り、慎重に検討し、これらに違反していないことを確認している。したがつて本件においては、故意または過失は成立しない。

四、刑法二三〇条の二の規定の趣旨からの免責

(一) 昭和四一年六月二三日(名誉及び信用毀損による損害賠償および慰藉料請求事件)最高裁判決は「民事上の不法行為たる名誉毀損については、その行為が公共の利害に関する事実に係り、もつぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であることが証明されたときには、右行為には違法性がなく、不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、もし右事実が真実であることが証明されなくても、その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である(このことは刑法二三〇条の二の規定の趣旨からも十分窺うことができる。)。」と判示している。また、報道の迅速性の要求と客観的真実の把握の困難性等から考えてという前提つきではあるが、「真実の証明は、記事に掲載された事実のすべてについて、細大もらさず、その真実であることまで証明を要するものではなく、その主要な部分において、之が真実であることの証明がなされれば足りるものと解すべきである。)(千葉地裁・昭和三七・四・二六下民集一三・四・七九〇)とした判例もあり、このことはイギリス、アメリカ、ドイツでも認められている(三島宗彦・「真実の証明と人格権の侵害」・現代損害賠償法講座2・一五一頁)。さらに公正な論評の場合は「その前提となる事実はそれが全くの虚偽であつてはならないが、だからといつて、すべてにわたつて真実であることまで要求すべきではない。そうでなければ『論評の自由』を認めない結果を招集する虞れがある。」(東京地裁・昭和四七・七・二判例時報六八八・七九)としている。以上のように真実の証明の範囲は、その主要部分についてなされればよい。

(二) 本件が公共の利害に関する事実に係り、もつぱら公益を図る目的に出た場合であることは、すでに述べたとおりである。また、事実の主要な部分、すなわち、本件意見広告の第一の「表」の主要な部分が真実であることに争いはない。したがつて、本件は、結局違法性がなく、不法行為は成立しないのである。

第三、保全の必要性の不存在

保全の必要性がないことについては、被申請人はさきに答弁書をもつて述べたが、さらにこれを補充し、明確にする。

一、損害および損害の継続がない。

本件のごとき断行的仮処分が許されるためには、民事訴訟法七六〇条に定められた「著しき損害を避け若くは急迫なる強暴を防ぐため又は其の他の理由により之を必要とするときに限る」べきことは、あえて述べるまでもない。

申請人は公党としての名誉を傷つけられ、いまだなんらその回復の措置をとり得ていないと主張している。しかしながら公党としての名誉を毀損されたと仮定しても、それ程現実的、直接的損害を受けたものであろうか。

かつて東京地決昭和四二年一〇月一三日図書発行禁止仮処分事件(下民集一八巻九・一〇号、九九五頁)において裁判所は「本件図書中の各記事については(1)人間の本質に根ざす弱点から生み出される金銭上の背徳や男女間の不倫な関係等人間の集団社会には不可避な一般的現象というべきものを殊さらに取上げ、債権者創価学会に固有なものとして誤まれる教義や基本的指導方針に起因していると非難する記述、(2)或いは一、二の犯罪行為を取上げて債権者らの構成員に固有な全般的犯罪傾向があるかの如き誤れる印象を与えようとする記述がある……。以上のような内容の記事及び債権者の上申書掲記の記事内容を総合すると債務者らの名誉信用を傷つけ、その人格権を侵害する恐れがないとは解せられない。」と判示しながらも「以上に指摘した程度の記事内容によつては、債権者等の布教、政治活動や宗教団体若くは公党としての存立が脅かされ或は重大な影響を受けるような弱体な組織であるとは認められない。」として事前抑制の措置をとるにはまだ必要性がないとして右申請を却下した。

いうまでもなく政党は一定の政治理想実現のために政治権力への参与を目的とする政治結社であり、民主主義国家においては公党は個人と異なり強固なる組織をもち、公党間はもとより国民に対しても絶えず政治的意見、政策を発表するとともに、互の意見、政策を批判、攻撃し合い、自己の政策、意見を誇示し、支持者の増強に努めることを信条とするものである。したがつて政党間での主義主張、政策あるいは国会運営に関しての他党の政策や意見に対する批判はもとより攻撃さえも日常茶飯事であると国民には受けとられているといつても過言ではない。

このような社会通念に照らしてみれば、かりに損害があつたとしても、それは申請人の主張するごとき重大な損害を申請人に加え、しかもそれが継続しているとは、到底考えられないものである。この意味においてまず本件仮処分は保全の必要性がない。

二、緊急性がない。

(一) 被申請人は申請人の抗議に対する昭和四八年一二月一五日付回答の中で、申請人に対して次のごとく反論のための紙面を無償にて提供することを申出たところ(疏甲第二八号証)、申請人はこれを拒否したものである。すなわち「3、先の意見広告の内容については、自由民主党が一切の責任を負つております。従つてその内容についての自由民主党の真意を究明する必要を貴党が求められるならば、右の趣旨にそつた自由民主党の正式回答を貴党が直接取りつけて下さい。4、サンケイ新聞社としては、貴党に対する自由民主党の正式回答を、貴党が弊社にご提示されることを希望します。5、右の自由民主党の正式回答が貴党の解釈される通り、サンケイ新聞紙面において貴党が反論されることを要求しているものであれば、サンケイ新聞社は広告スペースを貴党に無償で提供し反論をサンケイ新聞読者に告知することをお約束します。6、ご参考までではありますが、サンケイ新聞社としては、右により発生した費用は、弊社と自由民主党との意見広告掲載にあたつての広告出稿者側の民事上の責任に基づき、自由民主党にその負担を要求し、これを回収することになります。」と。

以上の回答によつて明らかなごとく、もし申請人が現実に損害が継続していると確信しているものとすれば、申請人が被申請人の提案にそつた行為をなすことは、それ程困難ではない筈である。申請人は被申請人の提案によれば、自由民主党の承認のもとに、その許容する範囲内で反論が掲載されることになり、被申請人は広告掲載者としての責任を不当に回避するものであるとして、これを断つたと述べている。

しかし自由民主党に対しては、右の「許容する範囲内」についての交渉も行なわないばかりか、一言の抗議もせずして、被申請人に対してのみかかる処分を求めることは、意見広告掲載を否定し、ひいては言論の自由を抑圧するためとみる外はない。これは救済のためには他に手段があるにもかかわらず仮処分を求めるものというべく、本件申請には緊急性がないといわなければならない。

(二) また被申請人はさきに答弁書にても述べたごとく、申請人の要請があれば被申請人の紙面に申請人の作成した本件文章を意見広告として掲載すること、広告料についても弾力的に考慮することを約束したものである。この被申請人の第二の申出に対しても申請人は一顧だにしなかつた。申請人はこの案に対しては、かくては一般新聞が金権勢力の道具となつて、金をもつものの無制限な「意見広告」の応酬をみとめ、とめどもない政治的言論の商業化をもたらし、ひいては言論の自由や議会制民主主義にとつて由々しい事態をまねくであろうという見地から拒絶したと主張している。

しかし申請人がわが国政党の中で、自由民主党に次いで政治資金が豊富であることは公知の事実であり、かりに本件文章のような意見広告の掲載を数回くり返したとしても、負担に耐えられない程の金額とならないことは明らかである。しかも被申請人は広告料金についても弾力的に考慮するとまで約束したものである。

一方、申請人は自らすでに毎日、読売の両紙に自由民主党をどぎつく批判した意見広告を本件意見広告より大きなスペース(本件意見広告は七段、申請人の毎日のものは全段((一五段))、読売のものは九段)を使用して掲載していることからみても、申請人の政治意見広告の否定に通じる主張は、その行動と矛盾しているもので採用の限りでない。

(三) さらに申請人には発行部数日刊紙六〇万部以上、日曜版二二〇万部以上と称される機関紙「赤旗」を有し、その他にも各種のPR手段を有している。そして現在まで被申請人に対して取材拒否という報復措置をとるとともに、「赤旗」等の紙面や傘下の民主団体を総動員して反サンケイの運動を連日強烈に展開している。すなわち申請人に損害が継続しているどころか、申請人は被申請人に対して新聞の使命ともいうべき取材拒否を実行するともに連日損害を加えているのである。むしろ申請人こそ加害者の立場というべきである。

申請人は「きたる本年六月の参議院選挙においても、この綱領にいう政府の実現をめざして、ひろく国民に訴えようとしているばかりでなく、云々。」として名誉回復の緊急性を主張している。しかし、かりに申請人に損害があるとしても、申請人は、本件意見広告のような意見に対しては適切な方法により、自己の意見を発表することができることはもとより、それによつてその勢力の発展を期待できる実力を備えた団体であるといわなければならない。

三、被申請人の蒙るべき損害を斟酌しなければならない。

本件仮処分が許された場合に、被申請人にも相当の損害が生ずることは火をみるよりも明らかである。すなわち申請人の作成した本件文章を反駁文としてサンケイ新聞朝刊全国版に、金七段ぬきで無料にて掲載することは広告料としても約三百万円の損失である。ところが、ただに広告料金の損失のみではない。もしこのような意見広告に対して反駁文を立法措置をまたずして掲載することを断行仮処分として命ぜられることは、諸外国におけるごとき反駁権に関する法令による種々の規制がないままに、編集権に対する大幅な侵犯を受忍させられることとなる。しかもかかる前例が許されるとすれば、反論は次の反論を生み、次々と反論を掲載すべきことを余儀なくされ、遂には新聞の自由も封殺されるおそれがあるといわなければならない。かかる新聞社の有形、無形の損害に対して本件のごとき断行仮処分の是非を決するにあたり、十分斟酌せらるべきことは当然であろう。

多くの判例は(ここに列挙するまでもなく)、当然にこれを斟酌すべきであるとし、またこの損害が申請人の損害を上回るときは、申請人の仮処分申請を却下すべきであるとしている(鈴木正裕「仮の地位を定める仮処分と保全の必要性」吉川記念保全処分の大系上二二六頁)。

四、事前抑制の法的措置は、慎重、厳格な要件のもとにのみ許される。

名誉毀損に対して妨害予防、排除の請求権を認めるかどうかについても意見の分れるところである。けだし名誉毀損行為を事前に防止することができるとすれば、出版、言論の全面的禁止ともなり司法権の事前検閲ともなりかねないからである。そこで、名誉毀損による妨害予防、排除請求権を肯定するためには、少なくとも次の要件が必要であるとされている(竹田稔「名誉毀損にもとづく訴訟」実務民事訴訟講座10二四六頁〜二四九頁)。1 公共の利害に関する事実を含まないこと。2 摘示された事実が真実に反すること。3 名誉毀損行為が故意によるものであること。4 妨害予防、排除により侵害者の受ける不利益より被侵害者の受ける利益が極めて大きいこと。5 以上の各要件は原告に挙証責任があること。

東京地決昭和四五年三月一四日決定事件(判時五八六号四一頁)も同趣旨である。

本件申請は被申請人に対して本件広告と同種の意見広告の掲載禁止を求めるところの文字通りの妨害予防、排除請求権ではない。しかしながら本申請によつて申請人の作成した長文の反駁記事をサンケイ新聞紙上に無料にて掲載することが許容されるとすれば、被申請人がこんご再び意見広告を掲載すれば同様な反駁文を掲載せしめられるおそれがあるとみなければならず、被申請人としては莫大な有形、無形の損害をも予想されるので、本件広告と同種のものはもとより他の意見広告をもこんご一切取り止めねばならないことは必定である。

すなわち、本件申請は同種の意見広告禁止の仮処分よりも重大な効果を被申請人に対して与えるものといわなければならない。このような点からみても本件仮処分を認容するためには妨害予防、排除請求以上の厳格な要件を必要とするものといわなければならない。

五、むすび

本件断行的仮処分の保全の必要性のないことは、さきにるる述べたところであるが、結論的にみれば、本件仮処分が自己の都合の悪い言論を封殺し、新聞の自由に対し重大な脅威と制約を加えようとするものであり、これが認められることによつて蒙る損害は測りしれない程甚大であるから、その意味においても本件仮処分は到底許容される余地のないものであることをさらに敷衍する。

申請人は自由民主党の意見広告が自党に対する中傷を含むものであるとして、これを自己の発行するサンケイ新聞紙上に掲載した被申請人を相手どつて反論広告の掲載を求めているのであるが、これは申請人と自由民主党とは長年に亘る政敵であり、相互の主義・主張や政策をめぐつて批判と論争をくり返している間柄であつて、自己の正当性を強調し、相手方の不当性を非難するのあまり、その発言の中には相互に少なからず行き過ぎもみられるのであつて、現に申請人が昭和四四年一二月二一日付毎日新聞朝刊(疏乙第五号証)および同月二四日付読売新聞朝刊(疏乙第六号証)に掲載した意見広告と本件意見広告を対比してみた場合、もし本件意見広告が中傷広告とされるのであれば、右の申請人の意見広告の方がこれよりも甚だしい中傷広告とみられてもやむを得ないものである。それ故にか、申請人もさすが自由民主党に対しては本件意見広告を中傷広告と主張してこれに抗議したり、さらには本件のような法的救済手段に訴えることはしなかつたのである。しかし、もし本件意見広告が申請人に対する中傷を含むものであるというのであれば、自由論壇としての意見広告の性格上、直接の発言者である自由民主党に対してこそ申請人は本件のような法的救済手段に訴えるべき筋合いのものであり、かつそれが最も適切な方法であるというべきである。しかるに、申請人がこれをしなかつたというところにこそ、本件仮処分の真相と本質が隠されているものといわざるを得ない。本件仮処分申請における申請人の主張によれば、「本件広告は、自由民主党が、本年六月の参議院議員選挙をめざして立案した長期にわたる宣伝計画にもとづく新聞広告の第一弾であつた。とりあえず朝日、毎日、読売、サンケイ、日経、東京の各社に掲載を申し入れ、さらに次第に地方紙に対しても掲載を拡大していく計画で、その所要経費は二十数億円がみこまれている。さすがはサンケイと日経をのぞく四社は、この非常識な広告の掲載を断る良識をしめしたが、本件広告に類する広告は自由民主党の側から次々と出稿される形勢にあり、自由民主党はその金権にものをいわせて、一般新聞の広告の買占めをはかつている」。しかるに、「被申請人は、昭和四八年八月に意見広告の『全面開放』という方針をうちだし、意見広告について『不必要と思われる制限項目を一切削除し、論旨、表現が妥当と思われないものでも掲載する』ことにした。」と述べ、「昨年一二月二九日付(サンケイ新聞の)主張欄に論説を掲げ、本件広告は『新聞倫理綱領やわが社の意見広告掲載基準に照らし、名誉毀損や侮辱などの法律に抵触するものではない』と断じ」るなど、「自己のとつた態度の正当性を主張している」ので、「これらを考えあわせると、申請人に対する一方的な中傷にあたる広告の掲載が、ひきつづきおこなわれる具体的な危険があるとみられる」から、本件仮処分の必要性があるという。

被申請人は日本における最大の公党たる自由民主党が社会の公器たる新聞を利用して申請人に対する中傷を意図するような非常識な意見広告を掲載するため、被申請人の発行するサンケイ新聞をはじめ各紙の意見広告欄を買収しようとしているとは到底考えたくないが、かりに申請人が主張するようにそれが事実であり、しかも「本年六月の参議院議員選挙をめざして立案した長期にわたる宣伝計画に基づく」ものであるとすればなおさらのこと、申請人は直接の発言者であり加害者というべき自由民主党を相手どつて適切有効な法的救済手段を講ずる必要があるというべきであり、それによつてこそ申請人の主張する自由民主党の中傷広告なるものを中止せしめることが可能となるのである。なぜならば、自由民主党が全国各紙の広告欄を買収し、申請人に対する中傷を意図するような非常識な意見広告を長期に亘つて行なう計画が存することが事実であるとすれば、申請人が主張するとおり、まさに本件意見広告は右計画に基づく新聞広告の第一弾にすぎないのであるから、被申請人に対して本件のような法的救済手段に訴えても、自由民主党が右計画を捨てない限り、同様の意見広告がサンケイ新聞以外の各紙にも掲載されることは必至であるからである。もとより、被申請人は、その有する新聞の自由と責任を厳守しており、申請人の主張するような中傷広告の掲載に応ずるものでは断じてないし、本件意見広告も申請人の主張するような中傷広告とは到底考えられないものである。

しかるに、申請人は自由民主党に対しては中傷広告と主張して抗議もしていないような本件意見広告について、これを掲載した被申請人ら新聞社に対してはあえて中傷広告であるとの主張をなして抗議するとともに、こんごこれが掲載を封殺せんとして、取材拒否その他の不当な圧力を加えた上、ひとり被申請人だけがこれに屈しないとみるや、本件仮処分申請におよんだものであつて、ここに新聞の自由を封殺せんとする本件仮処分の狙いと、これがもし安易に認められたならば招来するであろう新聞の自由に対する重大なる脅威が存することを指摘せざるを得ないのである。

意見広告は、さきに述べたごとく新聞社の編集方針に反する意見に対しても公表の機会を保障せんとするものであり、これはいうまでもなく憲法に保障された表現の自由に基づく新聞の自由と責任の下において行なわれているものである。かかる意味において、意見広告は民主主義社会における国民の知る権利に奉仕するための一つの重要な手段であり、いわゆる「思想の自由市場」を通じて正しい世論の形成に寄与せんとする積極的な意義を有するものである。したがつて、これを抹殺、否定せんとすることは、民主主義社会においても最も尊重さるべき新聞の自由に対する重大なる侵害といわざるを得ない。本件意見広告は右の新聞の自由に存立の基盤を有する被申請人の重大使命に基づいて掲載、公表したものである。したがつて、本件意見広告を掲載、公表したことにより、被申請人に対して、たとえ好ましく思つていないと思われる申請人の意見広告であつても、被申請人の有する新聞の自由と責任において、被申請人の意見広告掲載基準に反しない限り、これを掲載、公表するものであり、このことは申請人に対して再三述べてきたところである。

しかるに、申請人は何故に民主主義社会の基本たる相互の言論の自由を尊重せず、したがつて自己に不都合な主張、意見を認めず、いたずらにこれを封殺しようとするのであろうか。いやしくも、申請人は天下の公党である。申請人の政権構想に関する政策綱領のみならず、政党の政策綱領がひとたび実施されることになつた場合には、ひとり市民生活に重大な影響を与えるのみならず、国民と国家の運命を左右することにもなり、その結果は国民と国家の将来にとつてとり返しのつかない事態になるやも知れないことは、歴史的事実が証明するところである。したがつて政党の掲げる政策、綱領については嘘やかくしがあつてはならないのはもとより、一点の疑念もさしはさむものであつてはならない。したがつて、これに対して自由な意見と討論を通じて、あらゆる批判、論評を許し、国民の前にその問題点をくまなく明らかにし、正しい世論が形成されるような状態に置かれなければならない。このような重大な公共的性格を有する政党の政策、綱領の批判、論評をめぐつて、たとえ反対政党から強い疑念を提起され、あるいは、かりに非難を加えられたからといつて、中傷的発言であるとしてこれを封ずることは許されず、もしこのようなことを許すとすれば、自己の運命を委ねることになるかも知れない重大な問題に対する国民の知る権利を侵害することになり、誠に由々しいことといわなければならない。したがつて、民主主義社会における政党は自己に都合の悪い意見に対しても、これに耳をかたむけ、多少の行き過ぎた発言であつても、これを受け入れる寛容さがなければならない。また、それでこそ民主主義社会における政党として存立し得るのである。

被申請人は、本件意見広告が自由民主党の主張、意見が右に述べた意味において、一個の意見として「思想の自由市場」に公表するに値するものと考え、被申請人の意見広告掲載基準に則つて掲載したものである。その場合、本件意見広告はあくまで民主連合政府綱領と日本共産党との間に相違点があるという真実の事実に基づく自由民主党としての批判、論評を内容とするものであるから、被申請人としてはもとより本件意見広告が申請人の主張するような虚構の事実に基づく中傷広告であるとは毛頭考えなかつたものであり、しかもこれはあくまで被申請人の有する新聞の自由と責任において掲載したものであることはいうまでもない。

しかるに、申請人はかかる意見広告を否定しようとして(ただし、自己の一方的意見広告については、かつてこれを掲載した実績のあることは前述したとおりである)、これを通じての反論が可能であり、かつ被申請人もこれを促しているにもかかわらず、これを拒否し、申請人の主張を全文そのまま記事として無償で掲載するよう要求しているものであり、かかることは被申請人の編集権に対する侵害となるばかりでなく、意見広告のために広く紙面を開放している被申請人として、このようなことを認めることは意見広告そのものを継続せしめるか否かにもかかわる重大問題であるので、これを受け入れなかつたのは当然である。そのため申請人は、その一方的主張を満足せしめようとして本件仮処分申請におよんだものであるが、もし、これが認められるとするならば、被申請人の有する新聞の自由を放棄したに等しい結果となり、申請人の一連の言論封殺行動の前に被申請人も屈したことになるといわざるを得ない。したがつて本件は、自由社会における言論の自由の本質が賭けられている重大事件である、といつても過言ではないのである。

本件意見広告の掲載については、すでに明らかなとおり、名誉毀損の成立を認められる余地は全くないが、かりに百歩譲つてこれが成立を認められたとしても、本件のような断行的仮処分は申請人にその必要性が全く存しないのであつて、しかも、これを認めた場合の右のような被申請人の損害ないし民主主義社会の基本である新聞の自由に対する重大なる脅威制約をもたらすものであることを考慮すれば、なおのこと申請人の言論封殺の意図を有すると認むべき本件仮処分は断じて許容さるべきものではないのである。

第四、新聞の使命と意見広告

(民主主義)

民主主義はあらゆる意見や“異見”の自由な表明を認める、いわば寛容の精神に立脚するところが、その基本的な特徴である。しかし、民主主義は、その己の寛容さのゆえに、その根幹を揺がすような事態を招来することもある。

なぜなら、民主主義はそれ自体を否定するものにさえ寛容であつて、その結果、民主主義を否定するものの拾頭を許し、みずからを蝕み、みずからを滅ぼす可能性を秘めているからである。不幸にして、そのような事態が現実となつた場合、民主主義を否定するものの手によつて、突如として、それまでの寛容の精神は捨て去られ、自由のない暗い社会へ転落させられることは火を見るより明らかだろう。それは多くの歴史的事実が証明するところであるが、そうした事態は民主主義にとつて、もつとも恐るべきことであり、断じて避けねばならぬ。

(新聞の自由)

そのような事態を忌み嫌い、あるいは回避するための機能として、新聞には最大限ともいうべき自由が与えられてきた。つまり、ペンの力で民主主義を守る尖兵として、新聞の自由が保障されてきたのである。その責任ある新聞の自由こそ、民主主義社会において、もつとも尊重さるべき憲法第二一条にいう言論、表現の自由を代表するといつてもよい。

「新聞の自由は人民の自由の尺度」(サンデータイムズ紙編集長ハロルド・エバンス)という命題は、まさに、このことを端的に指摘したものであり、人々が新聞に対して抱いている信頼と期待は、このような背景と根拠に基づくものである。

(新聞の責任)

したがつて、新聞が外部からの圧力を恐れ、みずから新聞の自由を放棄し、あるいは不当に自己検閲におちいることは、民主主義のもとでは重大な背信行為といわねばならぬ。その意味において、あくまで理不尽な圧力を排除し、みずからの自由を守りぬくとこは新聞の責任である。そして、その当然の帰結として、新聞はつねに自由に報道、解説、論評を行なわねばならず、さらにまた、あらゆる意見ないし“異見”に対し、最大限にその表明を可能にすることを義務とさえ考えなくてはならない。

(意見広告の必要性)

被申請人が意見広告を全面的に開放したのは、そのような新聞の使命を深く自覚したためであり、あらゆる意見ならびに“異見”に表明の機会を与えることこそ、民主主義の進展に資すると考えたからである。また被申請人があえて編集の基本的な姿勢、立場と関係なく、たとえそれに反するものであつても、意見広告として掲載を認めることにしたのは、まず第一に、すべての意見に対する寛容への「誓約宣言」であり、第二には、新聞社といえども、社のすべての言論に無謬性をもつとは決めつけていないからである。

そうすることによつて、意見広告は、国民の「知る権利」、国民の「知らせる権利」をますます拡大させる可能性をもち、開かれた社会の自由な新聞の使命を果すことになるだろう。

(期待される意見広告)

さて、意見広告の全面的開放にあたつて、被申請人が、第一にもつとも大きく期待し、重要視したものは、新聞(プレス)とみずからの新聞社に対する批判的意見なのである。なぜならば、今日ほど、不偏不党を標榜するわが国の新聞、とりわけ全国紙といわれる大新聞の社会的責任が、大きな批判の的になつているときはなく、かつ、また新聞および新聞社に対する批判ほど、開陳の道が閉されているものはないと考えたからである。新聞の言論に対する自由な発言の場を新聞みずからが開くことができるか否かは、まさに意見広告開放の精神を全きものにするか否かのもつとも基本的な分れ道であり、新聞が自由の原則を貫き得るかどうかの生命線でもあると確信する。

第二の大きな期待は、ナマの政治批判、政策論争をその内容とする政治的意見広告である。今日の新聞批判の最大のものは、政治的意見についてであり、遺憾ながら、政治についての国民の「知る権利」に十分こたえているとはいいがたい。現に政権を担当している政党、将来、政権を担当するかもしれない政党に対する批判、それら相互間の論争は、まさに、国民の関心事であり、パブリック・マターの次元に属するものであつて、それらが、あまねくナマの形で国民に知らされるとこうに政治的意見広告の意義がある。

期待される意見広告とは、まさにこのようなものである。この二つは、意見広告の水準をもつとも端的に表わす指標であり、これらが不必要な束縛や制限によつてその道が閉されぬ限り、そして「開かれた場」を与える新聞が多くなればなるほど、民主主義の進展は期待できる。そうした意見広告は、寛容の精神の発露であつて、国民の「知る権利」をよりいつそう拡大させるものと信ずる。

(拒否される意見広告)

しかし、一方、意見広告において、表明の場を与えるべきでないもの、絶対に拒否されなくてはならないものとは何であろうか。それは一言にしていえば「マスコミの前には、ほとんど無力に等しい個人の権利を侵害する、もしくはその惧れのある意見広告」といえるだろう。意見広告の自由は、公共の利害に関する事項、あるいは一般市民生活に関係ある公共的関心事についての批判、論評の自由として認められるべきものであつて、個人の私生活の暴露や、人身攻撃を許すものでは断じてない。

別紙第九

以上「期待される意見広告」と「拒否さるべき意見広告」は、被申請人の意見広告に対する重要な見解を示すものであり、とくに後者のそれは、いわゆるフェアコメントの法理を認めた東京地裁の判決(昭四五(ワ)九六八号、昭和47.7.2民三五部)の精神から生れたものであることはいうまでもない。

(米国における意見広告)

意見広告が新聞社の基本的姿勢と異るものであつても、掲載を認めることは新聞の自由の当然の帰結であるが、米国ではその考え方がすでに社会的に定着している。

一九七三年五月、ニューヨーク・タイムズ紙は米中接近に賛同するという基本的姿勢であつたにもかかわらず、台湾系の在米華商団体の米中接近に反対する政治的意見広告を掲載した。このため、国連の中国代表部から警告を受けたが、同紙は中国政府に申請中の北京支局開設が困難になることを承知しながら、あくまで新聞の自由を貫き、中国の警告に対し「ニューヨーク・タイムズは政治広告を新聞の基本的要素とみなしているので、その方針を変更することはできない」と回答、最後まで譲らなかつた。「新聞の自由」の原則は、かくも厳しく尊いものなのである。

また、ニューヨーク・タイムズ紙は「広告の自由」と題する一九六一年一二月二八日付の社説で、「新聞の自由の原則は、例えばカストロのもとにおけるキューバ革命の後退というようなわれわれが同意できない事態や出来事の報道を要求するばかりではなく、われわれがその内容を認めないような本の広告、またわれわれがその目標を軽蔑するような諸政党や政治運動についての広告をも受け入れることを義務づけている。タイムズは報道の自由の原則をこのように考えている」と述べている。

さらに、本件のような政党が他の政党の政策を問う意見広告は多くの国民の関心にこたえるものであり、きわめて公共性の高い性格のものであることからみて、それの掲載を拒否することは、新聞の自由のもつとも重要な部分を骨抜きにするものであり、それは結局、新聞に自己検閲を強制することになりかねない。この点について、米国最高裁は、一九六四年のニューヨーク・タイムズ紙対サリバン事件判決、意見広告の掲載について新聞社に安易に名誉毀損を認めることは、報道機関の側に自己検閲を生じさせる恐れがあるとして、原判決を破棄した。同最高裁は「公の問題についての議論は、禁圧されず、力強く、かつ辛辣であるべきであり、時として政府や公務員に対する不愉快な程に、痛烈な攻撃であるべきだとする国家的コミットメントのバックグランドに照して考察しなければならぬ」として、公の問題についてあたう限りの自由な言論が許さるべきことを強調し、そして、被告の公表したステートメントが虚偽であることを知つているか、あるいはそれが虚偽であるか否かを全く無視する態度でなされたということを、原告の側で立証しなければならないとの原則を明らかにした。

こうして打ち立てられたニューヨーク・タイムズ・ルールの考え方は、そのままわが国においても妥当すべきものといえよう。

以上

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